タクシーの王子様 -REN

From -MARRIED

会計を済ませて一足先に店を出た。
少し肌寒い空気が顔を撫でていく。
身体にまとわりつく火照った雰囲気を洗い流していくようで、気持ちがいい。
タクシーを呼ぶとかなんとか言っているのを丁重にお断りしてそのまま来てしまったけれど、
なんとなくまっすぐ家に帰る気もしなくて…これからどうしようか。
別に彼女と喧嘩したとかそういうわけではない。
まだ帰らないと言えば少しややこしいことになりそうなのであえて言葉にするのは避けたけど、
彼女が家にいるなら、よっぽどでなければ外へ飲みには出ない。
なんて…怒られそうだな。

ひとりで行動できないわけじゃない。
ただ、もし彼女と過ごせる時間があるとして、それを他と天秤にかけるならそっちを取るだけのことだ。
もともとそこまで派手に飲んで歩くほうではないし、
結婚してから…いや、彼女と付き合うようになってからは回数も減っていた。
今日は珍しい人から誘われたこともあって来ただけで…ちゃんと彼女にも断ってるし。
…なんかさっきからどうも言い訳がましいけれど、別に怒られるとかそういうのはまったくない。
それは…彼女の名誉にかけて誓える。

そんな彼女はまだ仕事中。そろそろ終わるか終わらないか…そんなところだろう。
ここは、いま彼女がいるテレビ局からわりと近いところ。
時計を見ると、あらかじめ聞いておいた上がり時間に差し掛かる。
そうだ…迎えに…行こうか。
飲んでるから車もないし、そういう意味では不可能だけど、
この状況で行くとすればどうやって…そのあとふたりで帰らないといけないし…。
あぁ、そうか、タクシーで行けばいいのか。
どうせ自分もタクシーで帰るつもりだったし。なんでこんなことがすぐに思いつかないんだろう。
少し…酔ってるのかもしれないな。
まあ、いいや。
会いたい。
帰れば会えるけど、ここから直接会いに行こう。
君に会いに、行きたい。

テレビ局。とりあえずタクシーには待ってもらうことにした。
電話を取り出して、彼女へ繋げる。
呼び出し音…7回目で彼女が応答した。
仕事はちょうど終わったところみたいだ。
すごいな、俺…我ながら。
楽屋のフロアを聞き出して、足早にそこへ向かう。
こういうとき、結婚していて良かったと思う。
いや、こういうときだけでなくていつもそう思ってるんだけど、
今は特に…人目を憚らなくても君のところへ押し掛けていけるから。

*

「敦賀さん、どうかしたの?何か問題でも…」
「ううん、迎えにきたんだよ…一緒に帰ろう」

電話からほどなく姿を見せた俺に少し驚いてはいたけど、
迎えにきたと告げたらホッとした表情をしてくれた。
そうだよな、びっくりするよな…予告なしで突撃したんだから。
タクシーで来て、さらに待ってもらってるなんて言ったらもっと驚くだろうか。
いま、君の顔がどうしても見たくて、行けると思えば悩む間もなく身体が動いてた。だから、それに従ったんだ。

「ひとつだけごめん、飲んでるからタクシーなんだけど」
「あ…ううん、それはいいの」

ちょっと待っててね、と笑って片付けを再開する。
そんな様子も、普段あまり見ない光景だから新鮮で楽しい。
俺がいつも見てる基本は、出かけるまでと帰宅してからの君。
改めて現場でのワンシーンを見学できて少しテンションが上がってる。
外で落ち合って、ふたりで暮らす家に一緒に帰るのって…いいな。

待っててもらったタクシーに彼女を押し込んで、運転手さんに行き先を伝える。
走り出して少ししたあと、さっき会ってからほとんど触れていないことに気づいて…彼女に手を伸ばした。
指先から感触が伝わると間違いなくそこにいるんだとわかって、その実感がもっと欲しくなった。
抱きしめてみる。
いつもの体温と香り。慣れ親しんだそれが俺をほんのりと包んでいく。
さっきまでの俺に足りなかったのはこれだ。そばにいないんだから当たり前だけど、妙にしっくりくる感覚が嬉しくて。
会いにきて良かった。

「つ、敦賀さんここまだタクシーだよ?」
「知ってる…」

大人しく抱きしめられたままでいてくれてる彼女がポツリと呟いた。
そんなのわかってる。でもきっと運転手さんはこんなの慣れてるはずだし、
そもそも俺と君の仲だって世間に知られてるわけだし、家に着くまで我慢してなくてもいいかなって思ったから、ごめん。

「…酔ってます?」
「…あぁ、そうかもね…」

どうりで…少し…ふわふわしてるわけだ。
おかしいな、そんなに量を飲んだつもりはないのに…。

「もう…しょうがないなぁ」

彼女の苦笑した様子もそこそこに目を閉じた。
心配してくれてるんだと思えば、その言葉だって、彼女の想いが詰まったギフトみたいだ。

酔ったときに本性が出るっていうなら、これが俺の本性なんだと思う。
…結婚して帰るところが同じになったのに、ふとした瞬間、寂しく感じて、
仕事をしてるとわかっていながら君の様子が気になって、可能ならこうやって動いて君のところへ行こうとしてしまう。
会いたくて、実物をこの目で見て、声を聞いて体温に触れて、生きていることを実感する。
君が生きていること、じゃなくて、どっちかといえば、俺が生きていることを。
やっぱり…回ってきたかな。

彼女の肩にそっと頭を乗せてみた。
重たいだろうな、なんて思ってたら彼女が手を握ってくれた。

「大丈夫?」
「うん…大丈夫だよ」

別に気分が悪い訳じゃないから大丈夫。
ここではこれ以上のことができないし、せめて身体をくっつけていたいって思っただけだよ。
だってまだキスもしてないし、君から抱きしめてもらってないし。

「敦賀さん、ここ使う?」

不意の謎めいた言葉に、その意味をぼんやり想像していると、
触るね、という声に続いて彼女が俺の上半身を自分の膝の上へ誘導した。
えっ…
思いがけず膝枕になって、酔いがスッと覚めていくのがわかった。
…どうしたのかな。
心配してるんだろうな…普段しないようなことをしてしまったから。
きっと、かなり酔ってると思われてる。
まあ…否定はしないけど。
でも…本当は、叶うならこんな風に一緒に帰りたいと思う気持ちはいつもあるんだよ…あえて言ったりしないだけで。

今日はごめん、キョーコ…心配してくれてありがとう。
膝枕、久しぶりで嬉しいよ。
白馬ではなく、タクシーに乗って現れて、
しかも途中で撃沈してしまうなんて…きっと幻滅されてしまうね…。


2019.03.24 OUT
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