何かが触れてる。
頭…手…?
あ、そうか、昨日帰ってきて…キョーコ…。
「おはよう…どうしたの?」
頭の次、頬に触れた手をそっと掴んだ。
「本物だなぁって…ごめんなさい、起こしちゃった」
ベッドの上。先に起きた彼女が、そう言って俺のすぐそこで微笑む。
「いいんだよ」
うん…今度は俺の番かな。
昨夜しっかり堪能したと思ってはいるけど、相手が本物だって感動してるのは俺も同じだよ、キョーコ。
何にも代えがたい。
声、体温、肌の感触…纏う空気。みんな揃わないと…やっぱりダメなんだ。
君も俺と同じように感じてくれてるんだと思ったら嬉しい。
寂しかったよ。
機械越しに声は聞けても、君との距離を思い知るばかりだった。
こういう関係になるまでは、多分そんな風には思わなかった。
それまでも、しばらく会えなければ顔を見たいとは思ったけど…重症度から言えば今のほうがずっとひどい。
関係が深まれば深まるほど、そう実感してる。
お返しとばかりに、髪をなでてから頬に手をやる。
すべらかな感触を楽しんで、それからやっぱりキスをしないと終われない。
まぶたにひとつ落として、唇をそっとふさぐ。
寂しかった?
俺はすごく寂しかった。もうちょっと平気かなと思ってたよ。
普段こうして極限までベタついてるからかな。
東京から離れると物理的にそれが不可能になって、途端にこういうコミュニケーションに飢えてしまう。
だから一緒にいられる時、可能な限りは君に触れていたい。
彼女が俺の首に腕を回す。
ごめん、と言おうとしてやめた。
唇を離して目に入った彼女の表情が穏やかに笑っていたから。
多分そんな言葉は望んでないだろう。そうであれば、俺が言おうとしたことはただの自己満足に終わる。
職業上、仕方のないこと。
互いによくわかってる。
俺がそんなことを言ったら、きっと君は逆に心を痛めるに違いない。
謝って欲しいわけじゃないんだ。それは俺も同じだから。
それに、役者を志して、それを生業にしていたからこそ…
君と再会して恋に落ち、ふたりで一緒に生きていくという答えにたどり着いたんだ。
でも…ごめん。
寂しい思いをさせたかもしれないね。
せめて、一緒にいられる時を楽しく過ごせるように…しないとね。
「敦賀さん、今日オフだよね?おべんと作るから、お昼はそれ、食べてね」
「うん」
身体を起こして、彼女を抱きしめたまま少しの間まどろんでいると、そんな言葉が聞こえてきた。
うん、そういうのも久しぶり。
君に関するすべてのことに飢えてたから、何でも嬉しい。
楽しみだな。
あ、そうだ。
今日は彼女の言うとおり完全にオフだから、上がり時間がわかるようなら迎えに行こうかな。
「夜、何時頃になりそう?」
「私?」
「うん」
「うーん…どうかな、8時くらい?前後するかもしれないけど、多分それくらいだと思う」
どうしたの?といった表情でこちらを見る。
もちろん、そんなことを聞く意図はこれしかない。
「迎えに行くよ」
「え?大丈夫よ」
「行かせて…欲しいな」
だから連絡して、と言うと、彼女が照れた様子でうなずく。
はにかむのが可愛くて、食べてしまいたい。実際には食べられないから代わりに軽くキスをお見舞いしてみた。
迎えに行ったついでに、夕食も外で済ませればいいかな。
「食事、どうしようか、食べに行こうか?」
「ううん、今日は私、作るね」
俺の提案に意外な返答をよこして、にっこりと笑う。
「遅くなっちゃうけど、帰りにお買い物、してもいい?」
「もちろん」
君がそうしたいなら何だって。
君は君で忙しそうだし、あんまり無理はしてほしくないと思ったんだよ。
でも、君の作ったものを食べるのはそれはそれで好きだから、異論があるはずもない。
「久しぶりでしょ?」
「そうだね」
「ふたり分の夕食を用意するのも久しぶりだし…敦賀さん帰ってきたら、ってずっと楽しみにしてたから」
言葉の意味を噛み砕いて飲み込むのに少し時間がかかってしまった。
…なんだ、これ…朝から俺を落としにかかってるんだろうか。
もうとっくに落ちてるんだけど。それも引き返せないところまで思いっきり。
理性を試されてるのか…油断してるから無理だよ…理性なんて昨夜、玄関のあたりに忘れてると思う。
取りに、戻らないと…。
抱きしめる腕に心なしかぎゅっと力が入っていく。
予想もしない言葉。
俺も…楽しみにしてたよ。
君に久しぶりに会えること。
君に触れること。
君のとなりで眠ること。
君との生活空間に帰れること。
昨夜ここに足を踏み入れたとき、自分でも意識していなかったけど
身体に入っていたらしい余計な力がふっと抜けていくのがわかった。
やっぱり緊張状態にあったんだと苦笑した。そんなことが、帰宅してからわかるなんて。
君に触れて、もっとはっきり実感した。仕事をきちんと終えて、帰ってこれたんだ、と心の底からホッとした。
ここはただの家だった。ただ、自分が帰ってくるだけの。
でも、君と一緒に暮らすようになって変わったんだ。
自分の帰りを君が待っていてくれる幸せと、帰ってくる君を無条件で待てる喜び。
家族としては最小単位だけれど、これが愛のある家庭っていうことなんだと…思った。
両親がそうしてきたように、俺も君とそんな風にして、暮らしていきたい。
もうすぐ彼女は出かけて行くけど、夜になればちゃんと会える。
そんなことが、とても贅沢に思えてきた。
大丈夫。
例えひとりでいたとしても、ここは君の気配でいっぱいだから…この空気に包まれているだけでも十分だとは思う。
でも…もし叶うなら、君がいなくても夜までもたせられるようなスペシャルアイテムが欲しいな。
お弁当の他に。
キスとかハグとか、君の体温の記憶とか。
だからもう少し、このままでいてくれるかな…。
2019.04.22 OUT