祈り -KYOKO

From -MARRIED

ざぁっと吹き抜けていく風に、髪や裾が何度も舞い上がる。
この風は…いつか東京へも届く。
だけどきっと、ここで感じたものとは違ってるんだろうな。
空気が動いて軽やかに旅をする、のは世界中どこも同じだけれど、
巻き込んでいく匂いや温度が違えば、その表情は全然別物になるはず。

同じベッドで寝起きして、同じ家から出かけて、そしてふたりともそこへ帰ってくる。
普段はそういう生活をしているけれど、こうして日常から離れた場所へ来ると
やっぱり全然違うんだ、ってしみじみと思う。
同じなのは、ふたりで一緒にいることだけ。
空気も景色も何もかも違う。でも、隣には彼がいる。
こんな時ほど、ああ、どんなところでも一緒にいられるんだ、って改めて確認できる。
いつもと違うところに来ても、同じ風を受けて、同じ匂いに包まれて、同じ温度のなかで…一緒にいられる。

そんなウキウキした気分、私から滲み出てるかな。
…浮かれてる自覚も、少しはあるの。
今日から…正確には昨日の夜から、敦賀さんのこと、ひとりじめできてるし、
ふたり一緒にしばらくお休みをもらってる。
さらには、海外に来てるっていうのも、あるよね?
私もすごく楽しみにしてて、やっと来られてすっごく嬉しいんだけど、
敦賀さんもとっても嬉しそうにしてるように思えるから、そんな様子を見てるだけでも幸せ。
今日は、私のことよりも敦賀さんがどう思ってるかなっていうのが大事だもの。
あ、もちろんいつも、敦賀さんのことはとっても大事なんだけどね。

多分ここは、超がつくほどの高級リゾート…よね?
なんて…我ながらずいぶんのんびりしてるとは思う。手配はみんな敦賀さんがしてたの。
ここを選んだ理由はいろいろあるはずだけど、
着いたときに、私たちの滞在中は他に日本からの観光客は来ないって言ってたのを聞いて、
それが一番なのかな、って。
そして、少なくともそれ…日本からのお客さんがいないというのが事実なら、
私たちを知る人とここで出会う確率はぐーんと下がる。

ふたりでいることを隠したりしなくても良くはなったけれど、
だからといっていつでもどこでもベタベタしたりは…しないかな。
一応、イメージみたいなものもあるし、
それはきっと私よりも敦賀さんのほうが大事なんだろうと思ってる。
個人の力量…表現力が問われる一方で、人気商売でもある、という側面は、
私たちがいる世界での純然たる事実、だから。
大丈夫。そんなの最初からわかってるし、彼との関係は「それ」込みで紡いできたもの。
この人を手に入れられたことに比べたら、そんなの全然大したことじゃない。
だけど。
…そっか、ここなら…今ならベタベタし放題。
お部屋でも外でも、帰るまでずっとずーっと!好きなだけ、くっついててもいいんだ…。
…べ、別にそんな、必要以上にベタベタしたいっていうわけじゃ、ないんだけど。
だけどだけど。
そんなに周りを気にしなくてもいいっていうのは大きい。
「ふたりきり」を、普段以上に思いきり堪能できるかなあって考えたら…やだ、顔がニヤけちゃう。
えへへ。
つないでいた手に、ぎゅっと力をこめた。

「久しぶりですね」
「ん?」
「外でこんなに…手をつないで歩くの」
「…うん」
「嬉しいなって」

手をつなぐって、相手を直に感じられる最初の一歩みたいなもの。
そして、それぞれが相手と手をつなぎたいって思わないと実現できないこと、よね。
だから、手をつなげば敦賀さんの気持ちもちゃんと伝わる。
私と手をつなぎたいって思ってくれてるんだな…って。
もちろん、誰かと手をつなぐって特別なことでもあるし、相手が彼なら…もっと特別。
あ、たまにしかつながないってことじゃないの。
マンションとかエレベーターとか、お部屋の中でもつないでる時だってあるし、
眠るときとか…えっと、そ、そういう時とか。
ぎゅっと力を込めたら、敦賀さんもぎゅっとしてくれる。
まるで言葉のいらない身体同士の会話をしているみたいで、そこからも、好きっていう気持ちが伝わればいいなって、思うの。
特別っていうのは、そういう意味。
そんな風に思いながら手をつなぐのは、この人だけだもの。

あれこれ考えながら敦賀さんの手の感触を楽しんでいたら、彼が歩みを止めた。
私も少し遅れて立ち止まる。

あれ?
どうしたのかな。
そう思った瞬間、不意にぎゅっと抱きしめられた。

「つ、敦賀さん?」
「うん…」
「…どうかした?」

どうしたんだろう。

「ありがとう」

…え?

「俺と結婚してくれて…ありがとう」

しばらく抱きしめられてるだけだった時間の中に、不意に降ってきた敦賀さんの声。
まず、音だけが先に私の身体を通り抜けていった。
それからその言葉の意味が、遅れて私を包む空気ごと大きく揺らす。
ど、うしたんだろう…今、そんなこと言う、なんて。
思いもしない発言に、息をのむ。
立ち止まったままの私と敦賀さんの間を、風だけが絶えず動いては消える。

顔を見ると、消え入りそうに微笑む敦賀さんがいて、
なんていうか…まるで次の瞬間、風にあおられてこのままどこかに行ってしまいそうに思えて…
風が吹き抜けていく音と同じくらい、心がざわつき始めた。

どうしたの?
何を…考えてるの?
つないだ手からも表情からもすぐには読み取れないそれ、を必死に追いかける。

「俺も嬉しいよ」
「…うん」
「…やっぱりちょっと…窮屈だよね」

嬉しいっていう言葉に似つかわしくない顔をして、嬉しいって…そして窮屈だと、言う。
正反対の意味を持つ言葉を選ぶ、まるで謎解きみたいな敦賀さんの発言が、私の身体の中をぐるぐる回ってる。
何を…言ってるの?
何が…言いたいの…?
私も何か口を開こうとして…何も言えなくて、代わりに思わず喉元に手を当てた。

「他には…不自由なことは、ない?」

続けて、ごめんね、という敦賀さんにそっと抱きしめられた。
あたたかい空気の中での静かな言葉のやりとり。
だけど心の中は嵐みたいに不安な気持ちが吹き荒れてる。
何で謝ってるの…?
窮屈…で、不自由…?
不自由なんて。
いったい何が…不自由なこと、なの?

敦賀さんに強くしがみつきながら、言葉の裏にある彼の気持ちを必死に探る。
ぎゅっ…と、音がしそうなくらいに抱き合う私たちを、いくつもの空気の渦が強く撫でていく。
こんなに近いところにいるのに、心は触れられないくらい遠くにあるみたいで。

「俺は、ちゃんとできてるかな」
「…なに、を…?」
「君を幸せに…できてる?」

今日みたいな日に、なんでそんな不安そうにしてるの?
さっきまで穏やかに笑ってとても楽しそうだったのに。
急に、どうしたの?
そう思った瞬間。

ゆっくりと耳に届いて、そして体に落ち着いていく声と、言葉。
身体で捕まえたその意味が、ほんの少しの瞬間に全身を駆け巡る。
同時に、一度敦賀さんが私を強く抱きしめた。
敦賀さん、いま…何て、言ったの?
抱きしめられてる間…彼が言ったことを何度も何度も反芻する。
嬉しい。窮屈。不自由。
そして…幸せにできてるか、という問いかけ。
君を…つまり、私を…幸せにできてるかって…こと?

待って。待って…敦賀さん。
…敦賀さん。そんなの、当たり前じゃない。

そう言いたくて、少しだけ遅れてから彼の身体に強く腕を巻き付ける。

「俺は…すごく幸せ、だよ」

上から聞こえる声。
でも、さっきのあなたは、とてもそんな顔じゃ…幸せ、だなんて思ってる表情じゃ、なかった。
私、何か変なこと、言った…?

ああ。
そうだ。
私、敦賀さんに向かって「手をつないで歩くのが久しぶりで嬉しい」って、言った。
そのあとに言ったあなたの言葉たちは多分みんな、私の発言を受けてのもの、なんだ、よね?

そうか…わかった。

身体をそっと離して、代わりに敦賀さんの両手を握る。
やっと…わかった。敦賀さんがあんなことを口にした理由。
発端は私の、手をつないで歩くのが久しぶりっていう言葉だったのね…。
私はただ、それが嬉しいっていうだけだったのに、
敦賀さんはそれを…普段の生活でなかなかできないことを私が不満に…思ってるんじゃないかって、考えたんだ…。
違うよ…違う。

「ごめん、変なこと…言ったね」
「ううん、違うの」

敦賀さんが謝るのを聞いて、私は自分が少しだけ涙をこぼしていたことに初めて気づいた。
違う。ごめんなさい、違うの。
これは自分が悲しいからなんじゃなくて…
言葉の端々に浮かぶ敦賀さんの気持ち…その強い想いに呼応するかのように流れていってる、んだと思うの。
何から言えばいいのか、頭のなかで整理しようとして、でも…それよりも先に想いが口をついて出ていこうとしてる。

「一緒に…いたいだけなの」

手をつないで歩くのが他の人たちより少なくたって、
そんなの、あなたと一緒にいられることに比べたら、なんでもない。

「手だったら、お家でもいっぱいつないでるよね、敦賀さん」

時間の長さじゃない。
今までにどれだけ手をつないで歩いたかっていう、そのボリュームじゃなくて、
望めばいつでも手をつなげる関係でいられることこそが、大事なの。

そう。
だから、あなたとの関係で不満に思うことなんて、なーんにもないのよ?
今までも、これからだって。

「あんまり一緒に歩けなくても、ふたりでどこかに出かけることが少し難しくても、なんともないからね?」
「…うん」

私、ちゃんと、言えてる…?
矢継ぎ早に浮かんでくる想いの半分も伝えられてないような気がして、呼吸が苦しくなる。
伝えなきゃ。
思ってること、全部、伝えなきゃって考えれば考えるほど、言葉が上手く紡げなくて。

ねえ敦賀さん。ずっと…そんな風に思ってた?
私と結婚、してからもずっと?
そして私がちゃんと幸せそうなのかどうなのか…今までずーっと、心配してたの?
…そうよね。
私だって、敦賀さんが楽しそうにしてるかどうか、何か辛い思いをしていないか、いつもそう思いながら見てる。
だとしたら、敦賀さんだって私のことをそんな風にして見ていたとしても、ちっとも不思議じゃない。
ううん、きっとこの人はそうやっていつも私のことを気にかけてくれてるはず。
なのに…そんなことを思ったりするなんて。
私が幸せなのかどうなのかを不安に思うなんて。
…敦賀さん。ありがとう。
いつも、私に対してできる限りのことを…してくれようと、してるのよね。
この、瞬間も。

私…最上キョーコでよかった。
生まれてきてよかった。出会えてよかった。
敦賀さんとこんな風に絆を紡いでいける、その相手が私でよかった…。

「あなたの相手でいられることが、幸せなの」

一緒にいても、離れたところにいても、ずっとそれは変わらない。

「朝起きてから、眠るまで…きっと夢の中でもそう思ってるの」

私。

「毎日、すごく…幸せよ?」

ねえ、敦賀さん。

「だからもう、そんなこと考えないでね」

敦賀さんの両手を、自分の両手で上から握ったまま、目を閉じる。

「…今日はあなたのお誕生日なのに…そんな顔しないで」

そう。今日は敦賀さんのお誕生日。
私が一年でいちばん大切にしてる、何よりも特別な日。
自分の誕生日なんかよりもずっとずっと。

敦賀さん。
お誕生日を迎えるあなたとその日を一緒に過ごせるのは、私にとって本当に嬉しいことなの。
これだけは誰にも譲りたくないって、毎年毎年思ってる。
その瞬間に一緒にいたい。その瞬間を迎えるあなたに、一番最初におめでとうって言いたい。
できればその日のあなたを丸一日、独占していたい。
今年はそれが、ほぼ完璧な形で叶ったから…私、最高の気分なのよ?

「お誕生日おめでとう、敦賀さん。ふたりきりでお祝いさせてくれてありがとう。最高に…幸せです」

そこまで言って、最後。
もっと涙がこぼれていきそうになって慌てて敦賀さんをぎゅっと抱きしめた。

気持ちが少しでも、届いていればいいのにな。
言葉にした気持ちはきっと、私の中に渦巻くものの半分にもならないと思う。
そのことが、いつももどかしい。
だけど、私は私の言葉で出来る限りそれを伝えていかなくちゃ。
だって、敦賀さんがかけてくれる言葉はいつだって私をあたたかくする。
直接的な言葉も、間接的な言葉も、すべてはそこに隠れてる敦賀さんの気持ちを私の中に届けてくれる大切なもの。
だとしたら、私の言葉だってきっと同じように、敦賀さんに響くんじゃないかなって。
気持ちに追いつかない未熟な言葉でも…敦賀さんにちゃんと響いていたら、いいのになって…思うの。

「ありがとう…キョーコ、ごめん…充分だよ」

敦賀さんの声で顔をあげたら、いつもみたいな笑顔が私に向かってふりそそぐ。
…よかった。
そしてもう一度、しっかりと敦賀さんが私を抱きしめてくれた。
やっぱりこうして自分の気持ちに正直に触れ合ったり、キスしたり、しててもいいのって…いいな。
もちろん、普段が窮屈で嫌なんじゃなくて、今それがただ純粋に嬉しいってこと。
日本でふたりで、お部屋でのんびりしてるのも、同じように嬉しいし楽しい。
別々の場所から電話で会話をするのも、仕事中の敦賀さんを遠目に見るのも同じ。
つまり、敦賀さんとだったら、どんなことだって私にとっては幸せにつながる。
だから心配しないでね。
「ふたり」でいること。
もっといえば、本当はもう、あなたの存在自体が…この世界にいてくれることが私にとっての幸せだから。

お誕生日。
あなたが世界に祝福されて生まれてきたことを祝う、とっても大切な日。
改めて伝えられて…よかった。
私が、あなたからどれくらいの幸せをもらってるかってこと。
言葉にしたことで気持ちが加速度を付けて、より一層大きくなっていくのがわかる。
本当はもう、言葉でなんか追いつかないのだけど、でも…
伝えようとするなら、そうやっていかないと、きっと届かない。
だったら、これから先も、敦賀さんに届くことを祈りながら、伝えていこう。
照れくさかったり、恥ずかしかったりもするけれど…
それも、私と敦賀さんとの関係を形づくっていくものだと思うから。

…今はこうやって身体の力も借りておこう。
もうちょっと、そのままぎゅっと抱きしめててね。
やっぱり、ふたりきりで外で好きなだけくっついていられるチャンスだもの。
触れたところからあふれるくらいに伝わる「敦賀さん」で、私の中がいっぱいになる。

ね、敦賀さん。
空も海も綺麗で、空気は解放的で、周りには誰もいなくて…最高よね。
素敵なところへ連れてきてくれてありがとう。
いつも忙しくて周りにたくさんの人がいるあなたを、こんな形でひとりじめ、させてくれてありがとう。
これからの一年が、敦賀さんにとって良いことがたくさん訪れる年になりますように。
そして私は、そんなあなたの隣にいられたらもう、それだけで十分。

敦賀さん。
生まれてきてくれてありがとう…私を選んでくれて本当に、ありがとう…。


2021/02/09 OUT
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