休憩の声がかかる。
時間は午後12時を過ぎたところで、このままお昼休憩になると説明があった。
ふっとほぐれた空気の中、次に撮影するシーンのことを考えながら出口へ歩いていこうとしたとき。
「京子さん、ダンナサマ、お見えですよ」
スタッフさんの言葉に立ち止まった、まではよかったのだけど。
だ、ダンナサマ…ってなに…?
あ…っ!
それがあまりにここに似つかわしくない言葉だったから、コンマ3秒くらい固まってしまった。
ダンナサマ、って、つまり旦那様のことなのね…。
見回すと確かに私の…正真正銘、本物のダンナサマが立ってる。
…び、っくりしたぁ…。
そのまま彼の方に駆け寄って行くと、当の本人はいつものように微笑んでるのがわかって、密かにホッとする。
「どうしたの?何か…」
予想外のことがあると、いつも何かトラブルでも起きたんじゃないかと心配してしまう。
この人のプライベートを真っ先に心配できるのも私の特権と言えば特権だけど、
どっちかというとそんなに喜ばしいことではないのよね…心配事なんて。
そういう事実については、嬉しいことは嬉しいけど。
「大丈夫、何にもないよ。近くに来たから寄ってみただけ」
休憩だよね、と訊かれたのでうなずいて、周りの人たちに挨拶をしてからとりあえず楽屋の方へ歩きだす。
何もないのね、よかった。
ひとりなのかな…そもそもこの人、今日ってこんなところに来る予定だったっけ?
並んで歩きながら、頭の中がはてなマークでいっぱい。
ふと敦賀さんの左手を見ると、薬指に結婚指輪がはまってる。
移動中だから、つけてるんだ。
嬉しいな…えへへ。
とにかく中へ入ってもらって、素早くドアを閉めた。念のためカギを…カギは…まぁいいか。
「びっくりした、予定変わったの?」
「うん、時間が空いたから」
問いかけに対して最後、顔が見たいなって思ったんだよ、と続けてから私に手を伸ばした。
何かと思えば、ほっぺたをなでなでされて、次第に気恥ずかしくなる。
どうしよう、役に入ってた気持ちが瞬時にほどけていって「キョーコ」に戻っちゃう…。
「メイクが崩れたら…まずいかな」
「あ、ううん…お昼だし、どのみち休憩後に直すと」
あ。
何かを思う間もなく、唇をふさがれた。
だけど敦賀さんがすぐに離れていくことで逆に、
ここがそういうことをするのには不似合いな場所だと気づかされる。
メイクが…ってそういうこと、言ってたのね。
直すのは本当のことだから、いいんだけれど…私の気持ちのほうが、大丈夫かな。
キスしたいなんて思ったりはしなかったけれど、でも、今ので逆に、そういう気持ちが呼び起こされていくようで。
「前に…現場まで会いに来てくれたことがあっただろう?」
「ん」
「同じこと、やってみたかったんだ」
…うん。
そっか。こんな気持ちだったのかな、あのときの敦賀さん。
びっくりして、何かあったのかと思って心配して、顔を見てホッとして、
それから…予想外に会えたことが嬉しくなって、思いがけないふたりきりの時間がとっても楽しくて。
そっか…こんな気持ち、だったのね。
「ご飯、早く食べないとね」
なんとなくジーンとしていると、敦賀さんが私にお弁当を渡してくれた。
あぁ、あなたはここにご飯を食べに来たわけではないのよね。
テーブルに向かい合って、私ひとりでお弁当を食べ始めた。
…へんなの。
ふたりでいて、私だけが食事をしてるってことが普段ほとんどないことだから余計に変に思える。
だけどそっと向かいの敦賀さんを見ると、楽しそうに笑ってる。
…なんだか照れくさいなぁ…。
あ、そうだ。
「敦賀さんこそ、お昼は?」
「大丈夫、次の移動先で食べることになってるよ」
「そうなの…良かった」
「大事な約束だから、守らないと」
約束?
そうだ、ずいぶん前…まだ私と敦賀さんがこうなるなんて思いもしなかった頃のこと、よね。懐かしい。
ひとりでもちゃんと食事、してくださいね、って。
あれは朝食だったけれど、私は今でも密かにこの人の食事全般のことがすごく気がかりなの。
一緒にいられるときはいいけれど、そうでないときのほうが多いから…
ちゃんと食べてねって言ったり、食べたの?って聞くくらいしかできないのも、もどかしい。
でも、約束、かぁ…。
嬉しい。
今こうしてふたりでいる、ようになる前から続いてる私と敦賀さんの歴史が、ちゃんと意味のあるものになってる。
時間の流れ。あえて意味を持たせるようなものではないのかもしれないけど…うまく言えないな…
そういう時間もちゃんと共有しながらここまできたんだ、っていうこと、なのかな。
「ここのおべんと、結構美味しくて好きなの」
「そういえば俺もときどき見るかな」
もぐもぐしながらふとつぶやくと、敦賀さんがそんなふうに応えた。
珍しいな、敦賀さんが食べ物についてこんなこと言うなんて。この人の記憶に残るくらいなのか…相当ね。
「前もおなじこと言ってたね」
「え?私が?」
微笑みながら敦賀さんがうなずく。
やだ、そうだったっけ?
なんでだろう、いつ…?
記憶を必死で辿っていると、敦賀さんがドラマの名前を口にした。
過去に…それもずいぶん昔に敦賀さんと共演したドラマ。
そのときに一緒に食べたよ、って。
あー…そうだ。
覚えてたんだ。私も思い出した。
だってそれ…すっごく前のことなのよ?
もう…反則だよ。
それがいつなのか、だけじゃなくて、その時のお弁当がどこのものなのかとか、
私の感想とか、そんなのも全部覚えてるってことじゃない。
自分はそんなに食べ物に頓着しないクセに…。
「美味しい?」
「うん…」
よかったね、と言いながら敦賀さんが立ち上がる。
あ、もう行く時間…なの…。
どれくらいだろう、30分弱ってとこかな。それくらいしかいられないってわかってて、寄ってくれたのね。
一緒に暮らしてるのに、こんな風に予想外に顔を見られると嬉しい。その行動に、あなたの気持ちが見えるから…嬉しいな。
「邪魔しちゃったかな、ごめんね」
「そんなことない、ですよ?」
そう言って、笑って見せた。そんなこと、あるわけない。
いつだってあなたの顔を見ることは幸せなことだもの。
もちろん、帰宅すれば会えるんだけど、こういうのってなんだかいいな…
サプライズだったから、ふってわいたご褒美、みたい。それでいて秘密めいてて、こっそり会ってた頃みたいなスリルもあって。
「触ってもいい?」
「あ、うん、大丈夫」
返事が終わるか終わらないかの内に、ドアの前で、そっと、抱きしめられた。
いつもよりはソフトに、だけど、いつもと同じように敦賀さんの香りが私を包む。
今朝もしてきたけど、きっと一日に何回触れても同じくらい、好き。
だーい、すき。
「連絡するよ」
「うん…気をつけてね」
楽屋の前、お互いに手を振って別れた。
秘密めいてて、なんて言ったけど、こういうことはできるようになった。
堂々と相手の現場に行っても怪しまれないし、さっきみたいに、旦那様が来てますよ、なんて教えてもらえたりして。
うふふ。
消えていく背中に、心で呟いてみる。
ちゃんとご飯、食べてね、敦賀さん。
約束、ですからね?
なーんて。
もちろん、彼が約束を違えたことはほとんどない。
多分、どんなことを言っても叶えてくれようとすると思うの。
ずっとそばにいて欲しいとか、ずっと好きでいて欲しいとか。
敦賀さんならきっと…本当に叶えてくれそうだから不思議。
小さな小さな「逢い引き」の余韻。
ひとりでお弁当を食べ終わっても、まだ少しドキドキしてる。
さっき別れる前に「たくさんチャージしたから、キスは夜まで待つよ」って言ってた。
…だから…いつも言ってるでしょう、敦賀さん。
急にそんなこと聞かされたら、夜まで頭から離れないじゃない…。
…午後の仕事に支障をきたしたら、敦賀さんのせいなんだからね…!
2019.05.02 OUT