「わあ…気持ちいいっ…!」
靴を脱いだ彼女はそう言ってとても楽しそうに駆けて行く。
俺は靴を砂に沈み込ませながらその後をゆっくりと追う。
いつも俺と彼女が身を置いている世界とは、まるで時間の流れ方が違うみたいだ。
車を停めて、ふたりでここへ降りてきて、波打ち際へ行ってみたいと言う彼女の手を離して、
そしてそんな彼女を見失わないように距離を保ったまま着いて行く。
その動作のすべてがスローモーションのように思えて、ゆるやかな時間の流れに心がふっと息を吹き返す。
昼間であればまとわりつくような温度を持つ空気も、今はとても心地良い。
さらりと身体を撫でて通り抜ける風に誘われるようにして空を見上げた。
…夏、なんだ。
夏だからと言って何か特別なことがあるわけじゃなく、待っているのは普段どおりの日々。
そんな中で少しでも、こうして彼女と過ごすことができれば上出来だと思う。
それは夏に限ったことじゃなくて、いつだって、そうなんだけど。
だけど、彼女とこうして時を過ごすようになって少しだけ、季節に敏感になった。
人は、自分以外の誰かのことを想う時、生きている世界の鮮やかさに改めて気付くのかもしれない。
いや、人は…というよりも、俺が、かな。
この間ここに来たのはいつのことだっけ…
あぁ、春が夏の気配を見せ始めた頃で、日中と違い夜は少し肌寒かった。
空気の温度が今と違ったからなのか、あたりを染める暗闇も今よりもずっと濃密に思えて、
その中に彼女がゆっくりと溶けていきそうで、強く抱きしめた、んだった。
絶え間なく動いていく季節と、その中に刻まれていく彼女との想い出が蘇る。
これから先、いくつの季節を君とこうして過ごすんだろう…過ごせるんだろう。
それが限りなく永遠であればいいと望みながら、必ず叶えられえるわけではないことも知っている。
だから余計にこの時間が…君と過ごす一瞬ごとがとても大切なんだ。
それが、例え夜だけに許された密やかな逢い引き、だとしても。
「貝殻落ちてないかなって思ったけど、暗いからあんまり良く見えないですね、残念」
しゃがみこんだ彼女に声をかけると、そんな言葉がかえってきた。
誰のせいでもないけれど、俺の部屋ならばともかく、
外ではこんな時間にしか逢えない関係を思って彼女にこっそり心の中で謝る。
ここの海には彼女と何度も来たことがあるけれど、そのすべてがこんな風に、夜の闇に包まれた後のことだ。
俺が心の中で君を想う時、笑顔の君がいる風景は、ほとんどが夜だ。
やがて想い出に変わる今日の出来事も、同じ。
今のところ俺と彼女には、ふたりきりの時間は夜しか許されていない。
それでもいいと思いながら、いつかは、と矛盾した気持ちを常に抱えている。
だけど、そうやって夜の逢瀬を重ねていくことで彼女との時間を増やしていけば
いつかは叶うかもしれないふたりの未来を、夢見ることはできる。
その存在を強く願うことだって、できる。
それに、夜に君と外へ出かけるのも実は結構好きなんだ。
世界にふたりしかいないと錯覚するような夜の暗闇の中で君に手を伸ばすと、とても幸せな気持ちになれる。
自分の所有物だとは思わないけれど、一番近くにいる権利はもらっているんだと再確認することができるから。
夜に過ごす時間が幸せであればあるほど、明るい中ふたりきりで逢えるとしたら、どんなに幸せだろうと思う。
それを確かめないわけにはいかないだろう?
だから…これからもずっと一緒にいて同じ景色を見ていたいと、心から願う。
「あ、キョーコ、ほら、貝殻あるよ、ここ」
いつかきっと、明るい夏の海にも必ず連れて来てあげるよ。
少し遠くにいても、君の笑顔がちゃんとわかるくらいの眩しい陽射しの中、可愛い声で俺の名前を呼んでもらおう。
手を繋いで、今日と同じようにゆっくりと波打ち際を歩こう。
…そして今度はふたりで、数え切れないほどたくさん、貝殻を探そう。
2007/08/02 OUT