退屈な時間。
無駄に過ごしているとは言えないけれど、
何となく手持ち無沙汰なこんな待機時間には、恋人のことをふと思い出す。
そういえば、しばらく触れてない気がする。
離れていると彼女のことを忘れそうだ、なんていうことはもちろんない。
むしろ、離れた瞬間から彼女を求める干からびた身体が、心ごと連れて駆け出してしまいそうになる。
「逢いたいよ…キョーコ…」
素直にそう呟く。
自分の声が形作る彼女の名前が空気にすうっと飲み込まれていった。
思いを込めて呟いたその音が…想いが、
風に乗って彼女のところまで届けばいいのにと願うけれど、
あいにくと閉ざされたドアがそれを許さない。
窓の方に目線を移すと、降り注ぐ陽射しから零れた光が
部屋のわずかな部分を照らしているのが見えた。
外の寒さを思うとここは別世界みたいだ。
春とでも言ってもいいくらいに。
もともと季節感を感じにくい業界に身を置いているから、
春だの夏だのと特別に意識したことはない。
自分のしていることと時の流れが噛みあわない時間を過ごしているうちに、
気付けばいくつもの季節が移り変わっていく。
そうやって自分の人生も過ぎていくのだと、思っていた。
彼女に出逢うまでは。
静かな部屋に突如響いたノック音。
ぼんやりとしていた空気の流れが瞬時に破られる。
音に弾かれて立ち上がると同時に、その音の主がひらりと室内に飛び込んできた。
思いもしなかった、だけど今この瞬間何よりも焦がれていたその姿に目を疑う。
「キョーコ…」
「こんにちは…時間ができて…お邪魔しちゃいました。良いですか?」
良いも悪いも…ないよ。
君のことを考えてた。
逢いたい、って思ってた。
こんなことがあるんだな…と頭の中で感心しながら彼女に手を伸ばす。
「もちろん…、逢いたかったよ、すごく」
想いをそのまま言葉に出すと、彼女がほんのりと頬を染めた。
君も、俺に逢いたいと思って来てくれたんだろう?
抱きしめてしまうことすら惜しくて、ゆっくりとその距離を詰めていく。
目線を落とすと、彼女が着ているワンピースの裾がゆらりと揺れた。
「綺麗だね、よく似合ってる…新しい服?」
「CMの衣装だったんだけど、可愛かったから買い取りをお願いしたんです」
「CM?」
「この間話した、化粧品の」
「そうか…楽しみだな」
桜色のワンピース。
色だけでなく素材そのものが春を思わせるその服を着た彼女は、春の女神といっても遜色ない。
周りの空気すらも一瞬で変えてしまう存在感、本当に春が…来たみたいだ。
「これね、造花なんですけどすっごく綺麗で…敦賀さんに見せたくて…早いけど、お花見みたいでしょう?」
彼女が手に持っていたのは、満開の桜の木からそのまま取ってきたような
花びらに覆われた枝の部分。
「もうすぐ春だね、本当に」
「まだちょっと先ですよ」
俺の言葉に彼女がくすくすと笑う。
そんな笑い声でさえも、春の陽だまりのようにふわふわとした空気を連れてきてくれる。
彼女がいなかった頃、自分の中に春という概念があったのかさえ、怪しくなってきた。
多分あったんだろうけど、今よりもずっとずっと印象が薄かったんだろう。
「ここ、お茶の用意、してあるんですね」
「うん、コーヒーと…紅茶と日本茶、かな」
「お茶、して行ってもいいですか?私、おみやげ持ってきたんですよ、桜のクッキー」
彼女がそう言ってカバンから取り出したのは、言葉通り桜の花びらを象ったお菓子。
封を切ると、漂う香りはまさしく桜と言った感じで、
造花の桜も相まって、この楽屋は本当に春のようになった。
桜色の君と、君が連れてきてくれた「桜たち」と。
「早く本物の桜の花でお花見出来たら、いいですね」
そういえば、社長さんのお家にはたくさんの桜が植わってるんだって、
マリアちゃんが言ってました、すっごく綺麗なんでしょうね…
「そうだね…本当に…」
彼女の言葉が部屋の中をぐるりと回り、そしてゆるゆると消えていく。
本当は、2人でゆっくり花見なんて出来ないかもしれないけれど、その約束だけで十分。
心の中は一足先に春が来たみたいにふわふわしている。
一足先に2人きりで出来た今日の花見のおかげかな。
ああ…そうだ。
綺麗な桜を知ってる。
零れ落ちそうな花びらが、夜になると闇に白く浮かんで
まるで雪みたいに静かに散っていく。音もなく降り積もるんだ。
一緒に見れたらいいと思ってた。
今年こそは…君と一緒に。
少しだけ先にある約束を胸にそっとしまう。
そして、巡る季節を共に過ごせる幸せを感じながら、彼女の入れてくれた紅茶を飲み干した。
2007/04/01/ OUT