お疲れさまでした、はい、じゃあまた明日、よろしくお願いします。
そう言って、極めてにこやかに微笑んだ。
相手の人も、同じように微笑む。
彼の笑顔を見てから、頭を下げて歩き出す。
宿泊しているフロアに行くために、その人と、その人のマネージャーさんと、
みんなで乗ったエレベーター、降りる場所は私も同じ。
少し手前にある私のお部屋の前で、ふたりにもう一度挨拶をした。
自分に割り当てられた部屋へ入り、閉めたドア越しに遠ざかる足音を聞く。
…スパイごっこでもしてる気分。
部屋を横切って窓のそばまで行くと、綺麗な日本庭園が広がっているのが見えた。
ここは建物自体はホテルなんだけど、中にあるこの日本庭園がすごく有名らしいの。
夜にはライトアップされて、すっごく幻想的…って、
昨夜到着した時に、今と同じようにお部屋の窓から見ただけなんだけどね。
それから、なんでも恋に効く大きな石の置物があって、
恋人募集中の人や、恋人同士で来た人も、触るといいことがあるんだって。
…道理でやたらとカップルを見ると思った。
私はといえば、要するに地方ロケに伴う宿泊先がここのホテル。
お仕事の関係で、偶然来ただけ。
だけど、そのお話を聞いた時から無性にドキドキしちゃって止まらない。
恋人はいるの。しかも、すぐ近くに。
『もしもし、キョーコ?』
電話を手にとって、かけてみようかどうしようかと思った瞬間、ぶるぶると震えだした。
相手も確かめずに着信を受けるボタンを押す。
「はい、キョーコです」
『部屋にいる、よね?』
「いますよ、お庭眺めてました」
私の恋人は、敦賀さん。
さっき、笑顔で挨拶を交わしてエレベーターに一緒に乗って、ドアの前でもう一度笑顔で別れた人。
恋人同士だけど、それを知らない人の前では恋人としては振舞えない。
そして、私たちがそういう関係だと知っているのは、本当に一握りの人だけ。
『さっきはちょっと他人行儀で傷ついたな…』
「何言ってるんですか、いつも通りにしてたらバレちゃうもん、できません」
『俺は結構いつも通りにしてるけど』
「だったらなおさらですっ、もう…」
敦賀さんがそんなことを言うなんて珍しい。
不思議に思って窘めて、でもそんな会話の中でも、私も敦賀さんも笑ってる。
本気で言ってるわけじゃ、ないのよね。
秘密じゃなくなったら、どうなってしまうのか、ちゃんとわかってるから。
もちろん、いつまでも秘密のままにはしておけないと思うけど、今はまだその時期じゃない。
そう言う私を、あの人もちゃんと理解してくれてる。
『そこの部屋から見える?あの大きな石』
「うん、見えます」
『聞いた?』
「恋人同士で、っていうやつですか?」
『行ってみようか?』
え?行ってみようか、って…ふたりで?
いつ?
「でも…2人じゃ、ダメですよ、どこで誰が見てるかわかんないし」
敦賀さんからの電話で、最上キョーコに戻った私が、その提案にドキドキしてしまったけれど、
冷静に考えると、とてもふたりで行けるようなところじゃない。
建物の構成上、ほとんどの窓から見える場所にあるし、そういういわれだってきっとみんなが知ってる。
昼間は当然無理だし、夜中だって誰の目があるかなんて私たちにはわからない。
それは敦賀さんもわかってるはずなのに。
『明日、休憩時間にでもきっとそんな話が出るよ』
でも、敦賀さんのそんな言葉を受けて、疑問をぐるぐる感じていたのがぴたっとはまる。
そっか、そうよね。
恋人で、とは聞いたけど、ふたりきりで、っていう話ではなかったはず。
もともといつ行っても誰かがいるようなお庭だもの。厳密にふたりきりなんて無理よね。
だったら、ふたりきりで行ったって誰かと大勢で行ったって、
その中に私と敦賀さんがいれば、恋人同士で行ったのと同じこと、だもん。
「…そうですよね…えへへ、楽しみかも」
『だから、そのうち…今度は2人きりで来よう。約束』
ああ、もう、今すぐ敦賀さんにぎゅうってしてもらいたい。
恋人になってからこんなことは日常茶飯事だけど、全然平気。
私たちはいつ叶うともわからない約束を交わしながら「恋人」として過ごしてる。
そして、それはほとんどの人の前では、秘密。
だけど、秘密の関係でいることって、決して辛いことじゃない。
寂しい時も、ちょっとだけ悲しい時ももちろんあるけれど、
相手が敦賀さんだから…秘密の関係も、楽しくて幸せって思える。
敦賀さんがいつも私に、天才的な手腕でもってそう思わせてくれるから。
だから、大丈夫。
また増えた小さな約束を、心の手帳にそっとメモする。
いつ叶うともわからない、じゃなくて、いつかきっと叶う。
私が絶対叶えるし…そうじゃなかったら敦賀さんが絶対叶えてくれる。
秘密だけど、楽しい。
秘密だけど、幸せ。
ねえ、敦賀さん…敦賀さんも、そう思う、よね?
2007/09/02 OUT