マンションもお部屋も逃げるわけじゃないのに
エレベーターを降りてからも、少し駆け足。
ドアの鍵をあわただしく開けて、旦那様の靴を確かめた。
たった今の帰り道、すっごく綺麗な夕日だったから
お部屋の窓から一緒に見たらいいかなって思ったの。
まだご飯には早いから、一緒にお茶でも飲みながら。
今日は私だけが仕事で、敦賀さんは珍しいことにオフだったのだけど、
帰る時間はだいたい伝えてあったし、仕事が終わった時に電話しておいた。
だから、帰宅の合図のチャイムは鳴らさずに、というか
鳴らすのを忘れてバタバタと駆け込んで行ったら…
「た、だいま…敦賀さん…」
私の目に入ったのは、
リビングのソファで敦賀さんがすやすやと眠り込む姿。
手から滑ったらしい台本が床に控えめに落ちてる。
ただいま、と、大声で自分が帰宅したことを知らせるところだったのを
敦賀さんの姿を認めたところで、なんとか押しとどめた。
よかった…起こしちゃうところだった。
とりあえず荷物を静かに床に置く。
敦賀さんのほうへゆっくり回り込むと、
まず、頭上から少しだけ敦賀さんの様子を確認してみる。
夕日が顔にかかって、髪の毛やまつげと素敵なコントラストを作ってるから
つい、見とれたりして。
ここのところ忙しかったし、疲れてる、のよね。
昨夜、帰ってきたのだって結構遅かったもの。
私のほうが早かったから、先に眠ってたら、
ふいにベッドが沈む感触を覚えて目が覚めた。
眠る準備を終えた敦賀さんがそっとベッドに入ってくるところで、
目を覚ました私に、起こしてごめんね、と囁いてた。
半分くらい眠ってたから、あー、敦賀さんだ、って嬉しくて、
キ、ス…をねだってた、気がする…!
思い出した…なんかもう、恥ずかしい、な。
恥ずかしさと申し訳なさで消え入りたい感じを持ちつつも
昨夜のことをもうちょっと思い出してみる。
キスをして、おやすみ、という敦賀さんのうるつやボイスと香りと体温、
それからおまけにくれた、おでこへのちゅーが、
まるで麻酔のようにまたたくまに効いてきて
ソッコー落ちちゃった、んだっけ…そうだ…そう。
そんな、いつもとあまり変わりない夜の儀式。
幾度となく繰り返してきたようなそれも、こうしてじっくり思い出すと
恥ずかしかったり、ときめいたり、いろんな気持ちがないまぜになる。
胸がいっぱいになって、それが目から涙になって出ていきそうになって
とりあえず敦賀さんから離れた。
そしてあたらめて敦賀さんの隣に、そーっと腰を下ろす。
ソファのきしむ音がしたけど、それに対して敦賀さんは少しだけ身じろぎをしてまた夢の中へ。
家事をしなくちゃいけないんだけど、なんだか離れがたくて、
少しの間、敦賀さんの姿をゆっくり観察してみることにした。
痩せては…いないわよね。よかった。
「疲れて、ない?」
目線を頬から顎のライン、それから首筋をたどって鎖骨へ。
無造作にあけられたボタンから覗くそのパーツが、とてつもないフェロモンを発してるようで、
自分で見つめておきながら少し目のやり場に困ってしまう。
敦賀さんの身体なんて、普段、何でもないような時に見るよりも、
夜、ベッドの上で…熱に浮かされながら見るほうが多いから、なのかな。
って、私はいったい何を考えてるんだろう…。
このまま身体を眺めてると、そういうことを
ありありと思い出してしまいそうだったので、敦賀さんの観察をやめて、
隣にあった少しの隙間を埋めるように身体を寄せた。
ぴったり。
そして、肩口にそっと頭を乗せる。
不思議。
たどってきた道を考えれば…
敦賀さん以外には誰もいなかったんじゃないかな。
この人じゃなきゃ、だめ。
自分よりずっとずっと大切だと思うのも、
触れたくなるのも、いつまでもこうしてそばにいたいと願うのも。
世界のどこかで笑っててくれればいい、なんて思ったりするけれど、、
欲張りな私はやっぱり…こんな風に一番近くで私のことだけを見ていて欲しい、
とも思うのよね。
夕日にまるごと照らされて、
心の中の何もかもが露わになったような気がして、
だからこんな風に、敦賀さんとのことや、彼への想い、を
じっくりとひも解いてみたりしたくなったのかな。
もうすぐ夜がやってきて、新しい一日が始まる。
今、私と敦賀さんがいるのは、
どちらともつかない、一日の間に少しだけ訪れる狭間の時間。
今日、たまたま敦賀さんが家にいて、私も早めに帰ってくることができて、
そんな、一年に数えるほどしかないようなこのシチュエーションが、
スローモーションのようなひと時を、私にプレゼントしてくれたのかな。
「あぁ…キョーコ…おかえり。ごめん、眠ってたね…」
「ただいま…気持ちよさそうだったから、起きるまでこうしてようかなって」
「こっち、おいで」
しばらくぼんやりしてたら、敦賀さんが目を覚ました。
起き抜けとは思えないような素早さで私を膝の上に抱く。
向かい合ったせいで、顔が間近に迫ってきたから、吸い込まれるように
一度だけ、キスをした。
「広い家で一日ひとりは…ちょっと寂しかったな」
「…私も、そうなんですよ?」
「知ってる」
2人で駄々っ子みたいなことを言い合って、顔を見合わせてクスクスと笑う。
夕日の中にある敦賀さんのまつげや髪の毛が綺麗に染まって、
ずっと見つめていたいような衝動にかられた。
なんでこの人、こんなに綺麗っていう言葉が似合うんだろう…。
別世界の住人のように思えるときもあるけれど、
別世界の住人なんだと思ってたときもあったけれど、
でも確かに存在していて、私と同じ空気をまとって、
いつも私の目の前で微笑んでいて、
そして…私を世界で一番好きだと言ってくれる、世界でただひとりの、ひと。
少しの間ぼおっとしていたのか、
敦賀さんの指が頬を滑る感触でふいに現実に戻された。
…現実とはいっても、限りなく夢の世界に近いような現実、なんだけどね。
私にしてみたら…きっと夢、のほうが近い、かな。
だって、敦賀さんがこうして目の前にいて、こんなことしてるなんて…
いつかの私にはとても考えられない。
敦賀さんと幸せになれるのが…他の誰でもない、私だった、なんて。
だからもう少しだけ…こんな風にしていても、いい?
夢と現実の狭間のような、たそがれどきにぴったりの感傷が
私の手を敦賀さんに、伸ばさせる。
敦賀さんはそれを必ず取ってくれると、わかっているから…。
2013/11/11 OUT