飛行機を降りてからずいぶんと経つのに、帰りの車の中でも、
相変わらずわずかなもやもや感がつきまとっている。
正確に言えば、それは飛行機に乗る前からずっと続いてるものだ。
隣にいるマネージャーに気付かれないように何度ため息をもらしたのか、自分でもよくわからない。
こういう時には少しだけ、自分の仕事の忙しさをうらめしく思ったりも、する。
キョーコのこととなると、俺は真剣になるあまり少し周りが見えなくなったりすることもあるらしい。
とはいえ、それが原因で周囲にまで迷惑をかけることはほとんどないはずだけれど、
社さんに言わせるとどうやらそうでもないんだそうだ。
彼女のことを想う気持ちが暴走してそうさせるのなら、それは、彼女をただ好きでいた時も、
恋人だった時も、同じ部屋で生活するようになった今でもきっと変わってないんだろう。
今まさに心の奥に抱えているもやもやとした気分も、きっとそれの成せる業だ。
そんな気持ちと、仕事に対して少しだけ抱いてしまった不満、隣に座る彼には
気付かれてなければいいけど、なんて思いながらハンドルを握っていると
やがてそのマネージャーを降ろす場所へと車が滑り込む。
「じゃあな、蓮、お疲れさま」
「社さんこそ、お疲れさまでした。また明日、よろしくお願いします」
車から降りてそう挨拶を交わし、彼がくるりと反対方向を向いたのを見届けてから
アクセルを踏もうとしたその瞬間。
もう一度こちらに向き直った社さんが、ここ10日間で一番の笑顔を見せながら口を開いた。
「キョーコちゃんへのおみやげ、ちゃんと渡せよ?」
思いがけない一言にビックリした俺が、なんでそれを、と言おうとしたけれど
どうやら「な」しか声に出せていなかったらしい。
それでも長い付き合いだからなのか、俺の言いたかったことを汲み取った社さんは、
お兄さんは何でも知っているのさ、と呟きながら今度は本当にマンションの中へと入っていった。
なんだ…やっぱりバレてたんじゃないか。
そうだよな、あの人を上手く煙にまくなんて、俺には永遠に無理なのかもしれない。
説明のつかないくすぐったさを感じながら、とりあえずは家路へと急ぐ。
距離が近づくにつれて、もやもやよりも大きくなっていく愛しい人に逢えるという高揚感。
ぐっとアクセルを踏んだ。
*
「お帰りなさーいっ」
「ただいま」
チャイムを鳴らした後中へ入ると、出迎えてくれた彼女と玄関でいつものように長めのキスをする。
しばらく逢えなかった分もついでにおまけにつけて、
なんだかんだで5分くらいはそこにいたのかもしれないけれど、
食事を用意したという彼女に促されてリビングに入った。
「元気そうで良かった…心配したんですよ?さっきの声、ちょっとだけ元気なさそうだったから」
荷物を下ろしてからソファに座る俺を見つめて、彼女がほっとしたような顔を見せた。
搭乗前と空港を出るときに入れた電話のことを言ってるんだろう。
そんな風に心配させるつもりはなかったのに…、と、申し訳なくなる。
そして誤解させてしまった自分の態度を少し反芻しながら、相変わらずの彼女の洞察力の鋭さに感心する。
多分君も、理由を話せば、気にしなくていい、と言うだろう?
そうじゃないんだ…俺が1人で気にしてるだけで。それも…端から見ればなんてことのない、理由で。
「…キョーコ」
「ど、どうしたんですかそんな深刻な顔して…やっぱり何かあったんですね?
ご飯食べられなかったら無理に食べなくていいんですよ?疲れてるはずだし…あなたはすぐ無理するんだから」
「違うよ、そういうんじゃなくて…ほら…えっと」
「違わない。やっぱりなんだか変よ、敦賀さん。何かあったんでしょう?」
うっかり口にした謝罪の言葉を受けて、彼女が一気に俺に詰め寄る。
やばい、何かを勘違いさせてしまったみたいだ。
話が大きくなる前にさっさと渡してしまおうと、カバンのところへ戻りかける俺に彼女は
心底心配そうな顔を向けた。
「何かあったらすぐに言ってくださいっていつも言ってるでしょう?…でないと…」
「これ」
声を震わせる彼女に、カバンから取り出した四角い包みを渡した。
唐突な展開に戸惑っているような彼女を前にして、俺はやや声をうわずらせながら言葉を紡ぎだす。
こんなに緊張してるのは…ずいぶん久しぶりのような気がする。
「時間がなくて…ちゃんと買えなかったんだ。おみやげ。ごめん、っていうのはそのこと」
「…開けていい?」
「うん」
彼女を見下ろしていると、ゆっくりとその手が動き出す。
かさかさと包装を解く音が響き、現れたプラスチックの四角い物体に一瞬彼女の動きが止まる。
ぱかっと2つに開くそれを見た後、とても驚いた顔をしてもう一度俺を見上げた。
「…これ…っ」
「ごめん、やっぱり持ってたかな?…ここのショップを見つけたはいいけど本当に時間がなくて、
とりあえずこれが人気で、しかも限定だっていうから」
俺を見つめる彼女に、早口でまくしたてる。
彼女へのおみやげは、彼女がいつも好んで使っている化粧品メーカーのメイクパレット。
…というのだそうだ。色鮮やかなパウダーがたくさん詰まっていてそれがとても人気らしい。
搭乗時間が迫っていて、選んでいる暇もなかった。
これを選んだ理由は、彼女が好きなメーカーだということ。そして、新作で人気だということ。
化粧品が好きな彼女の事だから、もしかしたら既に持っているかもしれないと、
そこまで考えてみたけれど、結局俺にはそれ以外の選択肢がなかった。
…そして、少し残念な気持ちを抱えて飛行機に乗ることに、なる。
それだけのことで、しばらくの間なんとなく暗い気持ちでいたのだから、我ながら、情けないとは思う。
だけど、それはやっぱり俺にしてみれば譲れないことなんだ。
彼女に関係することについては、持てる全てを使って向かい合いたい。
例えそれが…こんなささいなことであっても。
ここ最近忙しくて、一緒にいられる時間が明らかに少ない。
寂しい想いをさせてるんじゃないかという負い目もある。
バレンタインを2人で過ごせなかったのだから、
ホワイトデーくらいは、と、気負ってたこともあるかもしれない。
喜ぶ顔が見たい。
そんな俺の気持ちは、時にいろんなものを巻き込んで嵐のように進んでいく。
今日は…それに彼女を巻き込んでしまった。
「…ううん、違うんです。嬉しい…ありがとう」
「気に入ってくれた?」
「はい」
「良かった」
想像通り、喜ぶ彼女の顔を見ることができてホッと胸をなでおろす。
受け入れてもらって、甘えさせてもらって…そして、何もかもを許されて。
何年一緒にいても、結局、俺は彼女の手のひらの上で転がされてるのかもしれないな。
そして、それは多分俺にしてみたら一番の幸福。
「じゃあ…とりあえずシャワーを浴びてくるよ」
「あ、あの…っ」
「ん?」
「先に…も1回、キスしても、いい?」
「もちろん」
そう告げてから向かい合う彼女の頬に手を伸ばすと、彼女が俺の手を掴んで
手のひらにキスをした。
少し驚いた俺がしばらく動けずにいると、そのままゆっくりと近づいてくる彼女の唇に
自分のそれを塞がれる格好になる。
頭の中を上手く処理できないまま、濃密な口付けを交わし、気付けば
舌だけでなく指まで絡めて、飢えを満たすようにして互いを貪っていた。
だけど一向に満たされない身体が呻き始める。
唇や肌だけではなく、もっと深いところで繋がりたい、と。
キスをねだられたという事実までもが、俺の中に火を灯していく。
「キスだけじゃ…済まなさそうだ」
唇を離してすぐに吐息混じりにそう漏らすと、彼女がゆっくりと頷いてから俺にぎゅっとしがみつく。
もしかしたらこれは…誘われた形に、なるのかな。
相変わらず彼女がそういうことが無意識に上手い。本人にはそんな自覚はないんだろうけれど。
そんなことをぼんやりと考えつつ、彼女を抱き上げてベッドルームへ向かった。
いつの間にか、もやもやとした気持ちが晴れていくのを感じながら。
*
「っ…あ…っ、あぁんっ…あ、あ、や…だも…うっ…だめ…つるがさ…っ」
彼女が2度達したところまでは記憶にある。
最初は唇と指で。
次は身体の奥にくすぶる快感に引きずられるように彼女の内側へと入って…後ろから。
何度もやってくる快楽の波に、彼女のそこが激しくひくつくのをもっと味わいたくなって
向かい合わせにした身体同士を揺すりあげた。
身体が直接感じる刺激に加えて、彼女が奏でる色香を帯びた声や、
繋がったところから淫らに響く濡れた音に耳までもが侵されていく。
考え付くところすべてに唇をつけ、滑らかに火照った肌をきつく吸い上げて跡を残し、
何度愛してると囁いたかわからない。
ぞくぞくと背中を上ってくる波に追いかけられながら律動を繰り返し
脳がドロドロに溶け出しそうなくらいの快感が、全身を駆け巡る。
しばらく彼女と離れ離れだったせいも、あるのかもしれない。
あらためて、今日の自分を支配している愛欲に身震いした。
「気持ちよさそうっ…だ…よ…ほら…すごくいやらしい顔、して…っ」
「やっ…見な…で…っ…あぁあ…っ」
「今日はすごいね…いっぱい濡れて…るし…何度もいって…腰振って…」
箍が外れたかのように喘ぎ、俺の動きに合わせて腰を動かす彼女に
耳元でわざとそう言ってやると
彼女の秘所が面白いくらいに俺を締め付けてくる。
「あっ、や…っ、あんっ、も…あ、あぁ、あ…っ」
嬌声の向こう側、濡れて潤んだ瞳の奥から、はやくいかせて…
と聞こえたような気がして、弾かれるように動きを一段と激しくした。
彼女の声、震える空気、きしむベッドの音、そして何より
自分の中で渦巻く意識を手放してしまいそうな快楽にのまれるように…。
そして、欲望の限りを込めてほとばしりを彼女に注ぐ瞬間に、確かめるように名前を呼んだ。
ここしばらく離れていた、しっとりと俺に馴染む彼女の熱が、
俺の身体に帰ってきたことをしっかりと教えてくれる。
快感の余韻が残ったままその体温に導かれて、彼女を抱きしめたままそっと倒れこんだ。
*
「敦賀さん」
「ん?」
「機嫌…直った?」
言葉とは裏腹に、とても幸せそうな顔をして彼女が俺に問う。
2人して果てて、息を整えて、それから互いの身体を慈しむように
熱をなだめて…そんな時間がていねいにゆっくりと過ぎていった、頃。
「…機嫌悪くなんかないよ、最初から」
柔らかく揺れる髪にくちづけながら彼女の問いにそう答える。
機嫌が悪いのではなくて、もやもやしてただけ。
…時間がなくてきちんとホワイトデーのプレゼントとしてのおみやげを選べなかったこと、
機嫌悪く見えたとするならば、ただひとつの理由がそれだときちんと説明すると、
彼女が静かにくすくすと笑い出した。それにつられて俺も少しだけ、笑った。
そうだよな…深刻なことだと、誤解されても仕方がなかったよな、あれじゃあ。
不器用な自分がおかしくもあり…格好の悪いことだけど、でもそんな自分も嫌いではないとも思える。
逆に言えば、いつまでも君に夢中でしかたがないんだという証明に、なるかもしれない。
多分君は、何もかも、ちゃんとわかってくれてるんだろうけれど。
「ふふ…私、もっと違うこと、考えてた…」
「余計な心配させたね、ごめん」
「ううん、いいの。それもだけどね、これをもらったときにすごくビックリしたのは、
もうひとつ理由があって…」
「え?」
「これは…この前ね、プレスの人が、もしかしたら見本を見せてもらえるかも、って言うから
うっかりお願いしちゃったくらい欲しかったパレットで…それで、なの」
「そうだったんだ…いつもはもう少し時間にも余裕があるんだけど、今回はさすがに参ったよ」
「何より、私がここのコスメが好きって覚えててくれてたのが嬉しい」
「それについては結構自信あるかな」
一緒に過ごすうちに、君についてのいろんなことを知るようになる。
知ってることがたくさん増えた分、君との生活がより一層キラキラしたものになるんだ。
まだまだ知らないことがいろいろあるんだろうけれど、それでも構わない。
それも一緒にいる楽しみのひとつだろうし…何にせよ、君への興味は尽きないんだから。
例えば…こうやって言葉を交わしている中でも、君は一体今何を考えてるんだろう…とか、ね。
「…敦賀さん」
「んー…?」
「おみやげ選ぶ時間がなかったからってもう落ち込んだりしないでくださいね?」
ほんとに暗い顔してるからビックリしちゃった」
彼女のそんな言葉に、ごめん、と口の中で短く呟いて、今度は指先にキスをひとつ。
落ち込んで…。
そうだな、そういうことになるのかもしれない。
心配させてしまったことを心から謝って、だけど、ちょっとだけ弁解をさせてもらうことにした。
「いや…俺にしてみたらかなり大したことなんだよ…ロケに出てる間は逢えないから、
せめて君の喜ぶ顔を想像しながらおみやげを選ぶのがかなりの楽しみなんだし」
「もう…」
「でも…とりあえず同じもの持ってたかもしれないわけだしね。
さっきの話だと、手に入るかもしれないんだろう?もう少しリサーチしとくべきだったな…反省」
「あ、それは良いんです。本当にもらえるかどうかはわからないし、
商品見本で、ちょっと使ってる部分もあるけど、ってことだったし、もし頂いたら、
雑誌の誌上フリマに出そうかなって。少し前から頼まれてて、何がいいかなって思ってたの」
「いいの?メーカーの人は大丈夫?」
「ん、いいの。理由を話したらきっとわかってくれます。仲良くしていただいてるし。
それに、出会いがドラマチックだったから、女の子の恋愛のお守りになるかもしれないし」
「…ドラマチック?」
「だって…欲しいって思ってたものを、敦賀さんが私の為に買ってきてくれたじゃない…?」
「そういう、意味か…確かにそうかも」
時間に追われてはいたけれど、とりあえず自分の選んだものと
彼女が欲しいと思っていたものがシンクロしていたことが、とても嬉しかった。
そんな偶然を、こんな風に綺麗な言葉で彩ってくれる彼女にも、感謝する。
やっぱり、プレゼントへのこだわりは、やめられそうにないな。
こうして喜んでもらえるのも、本当にクセになるし、
何よりも自分の彼女への想いときちんと向き合える。
一緒に暮らすようになった今でも、こうして丁寧に君と恋をしてる。そんな気分になれるんだ。
「私には…敦賀さんがくれる物より大切なものなんて、ないもの」
「キョーコ…」
「あ、違う。一番大切なのはもちろん、敦賀さんですからっ…!」
思いがけず聞こえてきた彼女の呟きに、遠くに去っていたものが呼び起こされていく。
それは…少しだけ落ち込んでいた俺へのサービスなのかな。
それとも、自然に言葉に出てきた…?
あぁもう、そんなことどうだっていい。
今しがた空気に溶けていった彼女の想いを追いかけるようにして、身体を少し起こした。
きっともう、止まらない。
「……もう1回、いい?」
「…もうちょっとゆっくり、がいいな…」
俺の直球な言葉に少しビックリしながら、ややあって彼女がこくんと頷いた。
彼女の方も、ゆるやかに引いていったさっきまでの波を思い出したように頬を染める。
キョーコ…いつも君はそうやって俺を無意識に煽って…
がっつく必要なんてないくらい、君の気持ちをたくさんもらってるはずだけれど、
やっぱり我慢できないよ。
心の中でそう呟きながら、だって敦賀さんさっきすごく激しかったもん、
と消え入りそうに呟くその唇をリクエストどおりに優しく塞いだ。
ごめん。
今日何度目に謝ったかわからない。だけど…もう一度謝っておくよ。
今度こそは優しくしようと思う俺の決心が簡単に流されないように。
そしてやっぱり今日は…それとはわからないようにごく自然に甘やかしてくれる彼女に、
とことん甘えてしまおう。
ホワイトデーの名を借りて。
2007/03/14 OUT