「おかえりなさい、って、ど、どうしたの?敦賀さんっ」
頬がほんのり赤くて、目が潤んでる。よく見たら足元も少しふらついてる。
それに、顔だけじゃない。
「ただいま」って言ったその声がもう、かすれてた。
私が帰ってきてすぐに、玄関のチャイムが鳴った。
もうすぐ帰れそう、っていう敦賀さんからのメールをもらってたから、
私はすぐに玄関に飛んでいった。
おかえりなさいって言って出迎えて、おかえりなさいのキスをするために。
ぎゅーってして、お互いの感触を確かめ合うために。
だけど、おかえりなさいの後にキスをしようとしたとき。
いつもと違う敦賀さんの様子に気付いた。
朝は何ともなかったはず。なのに、今は朝別れた時とはまったく違う。
「ちょっと…風邪、かな」
問いかける私に向かって、バツが悪そうにそう笑う。
ちょっと、って。
本当にちょっとなの?
「今日はいいから…離れてて?移ったら困るから」
身体を寄せた私をやんわりと遠ざけながら敦賀さんが言う。
そんな顔色してて、きっとこれから熱だって上がるはずなのに。
キスなんて、してる場合じゃないけど。
私に移ったら困るとか、そんなこと言ってる場合でもないよ、敦賀さん。
「とりあえず横になるよ。明日までに少しでも治しておかないと」
どうしよう。
こんなに具合の悪そうな敦賀さん、久しぶりに見た。
リビングに荷物を下ろした後、ベッドルームに向かう彼について私も入る。
着替えているそばで、多分私はすごく心配そうな顔をしてたんだろう。
敦賀さんが私の頭を撫でながら、笑う。でもすごく、辛そう。
そうだ、体温計。
あと…薬、は、何か食べてからじゃないと飲めないし…大体何か食べたのかしら。
あ、大根があるから、あれ、作ろう。あれならきっと敦賀さんも食べられるはず。
水分も取らせないと。ポカリとかあったっけ?なかったら、買いに行ってこなきゃ。
それと、ああ、氷枕と氷のう。
とりあえず、体温計、氷枕と氷のうと大根の蜂蜜がけを持って敦賀さんのところに戻った。
スポーツドリンク系のものが1つもなかったから、あとでこっそり買いに行こう。
そんなことを思いながらベッドルームに入ると、
いろいろなものを抱えてる私を見て、くすくすと敦賀さんが笑う。
もう、笑ってる場合じゃないのに。
氷枕をセットする間に熱を測ってもらったら、38℃を超えてた。
ああもう…そんなになってしまうまで無理をして。
そうしなきゃいけないのはわかってる。
だけど、俳優である前に、あなたは1人の人間なんだから、無理をすれば、ツケが回ってきちゃう。
それも私の一番大切な人、なんだから、やっぱり無理はしないで欲しいのに。
「食欲ないかもしれないけど、食べられる?」
「ああ、それならなんとか食べられる、かな」
そんなに美味しいものじゃないけど、食べた後には薬も飲んでね。
水を持ってきたから、喉がかわいてなくてもちゃんと飲まないとダメよ?
「これも、ときどきは役に立つでしょう?」
「そうだね」
横たわる敦賀さんの額に氷のうを乗せたら、とても気持ち良さそうに彼が目を閉じた。
とりあえずこれでしばらくは大丈夫かな。
大根を食べた後、薬も飲んでくれたし、熱が上がればその時は熱冷ましを飲めばいい。
「…キョーコ」
「なあに?」
「俺は大丈夫だから、今日はゲストルームで寝なさい」
「え…」
ベッドサイドで思いがけない彼の言葉に私は少し黙ってしまった。
…そう言うんじゃないかなとは、思ってたけど、でも…。
「君も仕事があってそうそう休めないんだし、同じ家に病人が2人もいたら大変だろう?」
「でも…」
反論の言葉を続けようとする私の頬を撫でながら、敦賀さんが出て行くように促す。
キスは…仕方ないと思うけど、同じ部屋にいるのもダメなの…?
こんな広いお家で、別々のお部屋で眠るなんて…ワガママかもしれないけど何だか寂しい。
大丈夫。私、頑丈だし。風邪なんて滅多にひかないし。
「風邪なんか移らないもん」
「…またそんなこと言って…とにかく、俺から離れてて」
敦賀さんの手をぎゅっと握ってみる。あったかい、を通り越して少し熱い。
キスはダメでも、いつもどおり一緒に眠りたいな。
抱きしめられて、抱きしめて、お互いの熱を感じたままゆっくりと。
敦賀さんがイヤなら、隣で眠るだけでもいい。だって…。
でも私のワガママなんかよりも、
敦賀さんのそんな様子見てるだけで、なんだか悲しくなってきちゃった。
大好きな人が辛そうな様子を見るのは本当に悲しい。
私はお医者さんじゃないし、すぐに治したりしてあげることはできないけど…。
「わかった。だから、少し眠って?また…見に来るから」
握っていた大きな手のひらに、口づけた。
今はあなたの言うとおりにするけど、でも私にだってお医者さんにはない秘密兵器があるの。
ベッドルームのドアを閉めながら、呟いた。
健康なときには、風邪をひかないようにすることだって、できるんだよ、敦賀さん。
だから、少しだけ待っててね。
お財布と鍵を持って、眠っている敦賀さんに気付かれないようにこっそりと家を出た。
行き先はコンビニ。敦賀さんが眠ってるうちに、私の秘密兵器、買ってこなくちゃ。
*
「キョーコ、だからここに来たらダメだって言っただろ…?」
とりあえず、眠る用意をして、戸締りも何もかもを済ませた後、もう一度ベッドルームに戻った。
隣にもぐりこもうとする私に気付いて、敦賀さんがかすれた声でそう告げる。
私は微笑みながら、下げていたコンビニの袋を敦賀さんに見せた。
中身は、ビタミンCの補給ドリンクが3本、栄養ドリンク3本。
水代わりになるスポーツドリンクも買ってきたの。
それから…ビタミンC配合のど飴に、タブレット。
とりあえず、ビタミンCが入ったもので目に付いたものはひととおり買ってきちゃった。
「これね、レモン50個分のビタミンCが取れるの。知ってる?ビタミンCって風邪予防にもなるって」
「キョー…」
「あとね、栄養ドリンクも買ってきたの。先回りしておけば、風邪なんて平気。
あ、そうそうこれは明日になったらあなたも飲んでね」
何か言いたそうにしてる敦賀さんに割り込ませないように、
袋から出した飲み物を飲みながら、矢継ぎ早に買ってきたものの説明をする。
ビタミン補給ドリンクの二つ目を飲み干す頃、
私の様子を見ていた敦賀さんが苦笑いをしながら私の腕を引き寄せた。
「わかった。もういいから…ビタミンCは取りすぎたらその分身体から出て行くんだよ」
「えっ!?そうなの?」
「だから、残りの一本は、俺にくれる?」
そう言って買い物袋からドリンクを取り出して飲み始める敦賀さん。
さっきより少しだけ顔色が良くなってるみたい。良かった。
帰ってきてからしばらくは、飲んだり食べたりできるような雰囲気じゃなかったもんね。
「…本当に風邪ひいたって、知らないよ?」
「敦賀さんからなら、平気」
「こら」
「うそ、わかってるもん、大丈夫」
だから、こうやって近くにいても平気。
敦賀さんの胸に飛び込むと、その大きな腕でそっと抱きしめられた。
顔を寄せてみるとやっぱりちょっと熱い。
「もう…君は本当に…」
「…本当に?」
腕の中で、見上げる私にひとつキスをくれた。
おでこだったけど、でも、それでもとっても嬉しくて、顔がニヤけちゃう。
「言っておくけど、本当にキョーコが風邪をひいたとしても、自分の責任なんだよ?」
敦賀さんがそう言って笑う。それからもう一度、ぎゅーって抱きしめてくれた。
ねえ、言ってることと表情と、今してることが全然違うよ、敦賀さん。
そんな笑顔で、ぎゅっと抱きしめてくれて。
敦賀さんも、私と同じだった?そうだよね、わかる。
いつも呆れるくらいくっついてるんだもん。
風邪だからって、離れ離れになるなんて、身体がついていけないよ。
そばに、いたいよ。
ましてや、体調が悪くてぐったりしてるあなたを放ってなんて、おけない。
「そんなの、わかってるって言ったでしょう」
わかってる。
それで、あなたのそばにいたって、私は風邪なんかひかないの。
ビタミンCもいっぱい取ったし、お風呂に入ってちゃんと髪も乾かした。
あなたを元気にしてあげるからね、敦賀さん。
風邪なんか、私が治すもん。大丈夫。
「じゃあ…おやすみ」
「ん」
おやすみなさい。
いつものおやすみなさいのキスの代わりに、ほっぺたにひとつキスをした。
私が敦賀さんのほっぺたに。
その後で少し笑い合ってから、敦賀さんが私のほっぺたにそっとキスをしてくれた。
唇は、明日にとっておくから、明日は今日の分もキス、してね。
それから、いつもみたいに2人並んで、眠りについた。
一足先にすう…と寝息を立て始めた彼の、頬にかかる髪をそっとかきあげる。
部屋を薄く照らす間接照明に浮かび上がる、その愛しい寝顔に囁いた。
ゆっくり休んでね。それで、もし眠っているのが辛くなったら、いつでも起こしてね。
ねえ、敦賀さん。わかってるのかな。
そんなことも、一緒に寝てなかったらできないって。
私は、あなたの奥さんなんだから、
あなたを1人にするなんて、できるわけ、ないでしょう?
だから…今日も隣で眠らせてね。
おやすみなさい、敦賀さん。
少しでも敦賀さんの体調が良くなりますようにとお祈りして、そっと目を閉じた。
抱きしめ合う代わりに、大きな手をぎゅっと握りながら。
2006/05/13 OUT