Prayer -REN

From -MARRIED

彼女の左手に触れる時に伝わる、ひんやりとした感触。
それを自分の手で感じるのがとても好きだ。
自分と同じ指輪がはめられていることを何度でも確かめたくて
そうして触れるたびに、彼女がはにかみながら微笑む。

とても表情が豊かだから、笑う、というひとつの表情を取ってみても、
本当に彼女はいろんな顔を見せてくれる。
満開の花のような笑顔だったり、少し困ったように笑ったり、目を伏せて小さく微笑んだり。
セックスをしている時なんかの、頬を上気させて潤んだ目をこちらに向けて浮かべる笑顔は
本当に可愛くて扇情的で困る。
一番好きなのはどれかと聞かれても、多分決められない。
だけどそうだな…ちょっと照れくさそうにして微笑む…それをはにかむ、というんだろうか。
そんな笑顔に逢うことが一番多いせいか、
1人で彼女のことを思い浮かべるとき、俺の中の彼女はいつもそんな表情をしている。

彼女が微笑むと、周りの空気がふんわりと柔らかくなるような気がする。
つられて自分の顔が緩んでいくのも構わずにその手を取り、
抱き寄せて、その存在を触れる身体から熱として感じとると、
彼女ごと、自分がその柔らかな空気に融けていけるような錯覚に陥ってしまう。

そのたびにこみ上げてくるこの愛しさは、何なんだろう。
言葉に言い尽くせないくらいの想いが、自分をゆっくりと支配していく。
どれくらい彼女のことを愛おしく思っているかなんて、具体的に示せるわけもなくて
自分の気持ちの大きさを知るたびに、そのそばにいられることの幸せとか
いつまで続くかわからないこの生活を失うことへの恐怖で、心が乱れてしまうことも、ある。
願望だけで世界が回っているということを無条件に信じられるほど、強くもない。
例えば、願う。祈る。
でも、どうやったってその通りにならないことだって、世の中にはたくさんあることも、知っている。

キョーコ。
あの日神様に誓った言葉は、今もずっと俺の心の中にあるよ。
2回も同じことを、って、多分神様にも呆れられてるのかもしれないね。
永遠にそばにいる、と、何度も言葉にして君にも誓った。
それが不可能なことだとわかっていて、それでもそう言わずにはいられない。
願わずには、いられない。

「おはよう…」

眠り続けている彼女に聞こえないように小さくそう呟いて、その左手を取った。
薬指におさまっている結婚指輪が、朝陽に反射してその存在を主張している。
唇で触れてみると、金属ならではの冷たい感触が感じられて、
そのことがかえって俺の心を柔らかく包んでくれる。
その左手をベッドに縫いとめるようにして自分の左手で覆った。
少し低めだけれど確かに彼女の鼓動を伝えてくれるその体温がくすぐったい。

結婚をしてすぐの頃、幸せかどうかと聞かれることが多かった。
幸せかと聞かれれば、間違いなく幸せだった。もちろん、今も。
だけど、結婚をしたことで幸せになれたのかどうか、という意味であったなら、
違う、と答えたほうが正しかった。

「…つ…るがさん?」
「ん、おはよう…ゆっくり眠れた?」

寝顔を見つめていると、その瞳がゆっくりと開いていくのがよくわかった。
俺が見つめているのに気づいたんだろう、最初はぼんやりとしていた瞳がすぐにぱちっと開かれて
少し照れくさそうに笑いながら俺の名前を唇に乗せる。

ああ、こんなことだけで本当に幸せだ。
夜、ここに帰ってくれば彼女がいて、大きなベッドの上で2人並んで眠り、
数時間もすればいつもと変わらない朝がやってきて、
夢から醒めた彼女がいつものように俺の名前を呼んでくれる。
些細なことなのに、毎日繰り返されることなのに、幸せで、胸が苦しい。

「敦賀さんこそ…昨夜遅かったでしょう?大丈夫?眠くない?」
「大丈夫だよ、鍛えてるから」
「…鍛えてたって体調は崩すんですからね」

彼女の手がゆっくりと俺のほうに伸びてきて、
いつも彼女がそうするように、髪をゆるゆると撫で始めた。
髪に触れるのが好きなのだと聞かされて、そんなことを想像もしなかった俺は
とても嬉しく思ったのを今でもよく覚えてる。
俺が彼女のことを好きなだけじゃなくて、彼女も俺のことをきちんと好きでいてくれているんだと
はっきり教えてもらったみたいで、柄にもなく緊張した。
いや、彼女に恋をしてから、柄にもないことばかりで、どれが本当の俺なのかも、
もう考えるのはやめにしたけれど。

これ以上ないくらい幸せなはずなのに胸が苦しいのは、それを失うことが怖いからなんだろう。
彼女のことを好きになって、恋人同士になって…
そしてこうして結婚して一つ屋根の下で暮らすようになって、そのことの意味を嫌というほど思い知った。
朝、別々の仕事場に行くために別れるとき、これきりもう逢えなくなるかもしれないと、ふと思う。
可愛い声、キラキラと光る瞳、花のような笑顔、いつでも俺を許してくれるあたたかな体温、
もう二度と逢えなくなったりしたら、俺は多分正気ではいられなくなるだろう。
それくらい、彼女のことが大切で、自分の人生の中では不可欠なものになってしまったんだ。

そんな大切で愛しい人と暮らす毎日。
幸せかと、聞かれたら、それはもう幸せに決まっている。
だけどそれは、結婚したから幸せ、という次元のものじゃあ、ない。
彼女と出逢えたことが、俺にとってはもう幸せ以外の何物でもなくて、
突き詰めていけば、彼女がただ穏やかに笑いながら暮らしていてくれたら、
俺はそれだけでも十分幸せなんだと、思っている。
それに、失うことが怖いのは、手に入れることができたことの裏返しでもある。
はじめから持っていなければ、失くすこともないけれど、それじゃあ意味がない。
失くすかもしれないと思いながら、それでも手に入れたい。
それが、彼女という存在だから。

俺のそばで笑っていてくれる、彼女は俺にそんな身に余るほどの幸せをくれるのに
俺が彼女にしてあげられることは、ほとんどない。
だから、俺はいつも心の中で誰にともなく、祈る。
彼女が、いつまでも笑って暮らせるように。彼女がいつまでも幸せでいられるように。
永遠なんて本当はないことをわかっていながら、
彼女が望む限り、いつまでもそばにいられるようにと。

「敦賀さん、もう起きなきゃ…」
「ん…そうだね…」

永遠にそばにいることは出来ないかもしれないけど、でもこれだけは自信がある。
次に生まれ変わっても、きっと君を見つけてみせるから、待ってて。
生まれ変わってもきっと、君と恋に落ちる。必ず。
そういう意味での永遠なら叶えられると信じて、密やかに祈る。
昼も、夜も。


2008/05/31 OUT

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