「朝ご飯、ケーキ食べて下さいねっ」
言われたとおり、冷蔵庫を開けると大きなかたまりのケーキが見えた。
ところどころえぐられて、まるでネズミか何かが食べた後のような。
元は長方形のそれの上面には、こう書かれてある。
文字はもちろん崩れかかり、原型を留めてはいない。
Congratulations on the marriage !!
昨日行われた身内だけでのささやかなパーティの席で
出席してくれた人たちが用意していたものだ。俺達の為に。
俺と、彼女の結婚披露パーティ。
冷蔵庫から取り出したそのケーキを適当に切り分けて皿に乗せた。
朝からケーキ。
食べられないな、とは言ったけど、このケーキを前にすると
顔がにやけてしまう自分が抑えられない。嬉しくて。
今日から始まる新しい共同生活。
さっき慌しく出て行った彼女は、まだ実感が湧かないみたいだけど
俺は、もうこの日を待ち焦がれて仕方なかった。
彼女と同じ部屋から1日を始める。
そのことをどれほど思い描いたことかわからない。
嬉しくて、仕方がない。
戸棚から、彼女とペアのマグカップ、彼女の方を取り出して紅茶を入れた。
取り替えて使うのがもう暗黙の了解みたいになっている。
こうやって使っていれば、1人の時もそばにいるみたいに感じられる。
君がそう教えてくれた。君がくれた初めてのペアのもの。
リビングのテーブルまでケーキと紅茶を運び、ラグに座る。
彼女がカーテンを開け放して行ってくれたおかげで、室内が明るい。
こんなことからも、昨日までとの違いを見つけられる。
いなくなった後も感じられる彼女の気配がくすぐったくて、また笑ってしまう。
ケーキは甘くて美味しかった。
昨日、ささやかだけど、盛大に祝ってくれた人たちの気持ちも相まって。
朝食に感動したのは初めてかもしれない。
気持ちも顔もゆるみっぱなしのまま、簡単に片付けて仕事に行く用意を始めることにした。
朝から彼女に触れられたおかげで気分が明るい気がする。
明日からもずっと、そうやって生活していけるのかと思うと、本当に。
シャワーから出たところで、鳴り響く携帯電話に気付いた。
ディスプレイには、社さんの名前。
いつもは電話なんてしてこないくせに、今日はしてくるなんて
新婚で浮かれてるだろう俺をからかいたいのか、どうなのか。
彼女に片想いしていた頃から、いや多分それ以前からあの人は
俺の気持ちにいち早く気付いて、散々弄ばれたっけ…。
応援してくれてた、のかもしれないけど。
「はい」
「蓮!おはよう、お前のことだから大丈夫だとは思うけど気になっちゃって」
「おはようございます。もうすぐ出ますから大丈夫ですよ?」
「奥さんとラブラブで仕事なんか忘れてるんじゃないかな~と思って」
「っ…忘れるわけないでしょう、もう…用意しますから切りますよ」
「ちょっと言ってみただけなのに~、まさかキョーコちゃんに一緒に休もうなんて」
「言ってません」
「…やっぱり言ったん」
「それじゃそろそろ出ますから、その時に」
そう言って無理矢理切ったものの、
これからしばらくはこうやってからかわれるのかと思うとため息が出る。
ため息をついた顔すら、ゆるんでるんだろうけれど。
あの人も、本当にいい人なんだけどな…。
*
今日は1日仕事にならなかった、気がする。
彼女はどうだったんだろう。
行く先々でお祝いを言われて、何かしらプレゼントをもらって
決して広くはない車の後部座席には花束が山と積まれている。
休憩中に電話したときには、留守になっていた。
一応メッセージを残しておいたけど
その後は俺の方もチェックする暇がなくてそのままに、なってる。
社さんをいつもどおり彼のマンションの前で降ろすと
帰り際に、綺麗に包装された箱が入った袋を手渡された。
そういえば一日中、手に提げていた。
何かと問うと、照れくさそうに、プレゼントだと言う。
「いいんだ、俺があげたいだけなんだから。
…お前とキョーコちゃん見てると、こっちまで嬉しくなるんだよ。良かったな、蓮。本当に、おめでとう」
披露パーティの時にも確か何かくれたはずなのに。
普段から世話になりっぱなしだし、これ以上はもらえないと慌てて言うと
まっすぐこちらを見つめてそう返された。
参った。
どんなお祝いよりも、現実に響く、嬉しい言葉になる。
「…ありがとうございます」
「じゃ、また明日。キョーコちゃんによろしく」
エントランスに消えていく後姿をしばらく見送った。
ねえキョーコ、またお祝いをもらったよ。
俺達のことを多分誰よりも心配してくれて、喜んでくれた人に。
どうやってお返ししようか?
思いがけず温かい気持ちになって、家路を急いだ。
俺は多分すごく幸せ者なんだろう。
一番大切な人と一緒に生きていく約束を交わせただけじゃなくて
それを自分のことのように喜んでくれる人が周りに何人も居て。
駐車場に入る前に自分の部屋のあたりに目をやると灯りが見える。
もう、帰ってるんだ。
君が待つ、俺と君の部屋。
今日、一日中考えてた、帰る場所が同じになった喜び。
どこに行っても…帰る場所は同じ。
それだけで、これから始まる新しい生活のすべてが
鮮やかに彩られているような気がした。
早く帰りたい。
車を降りて、とりあえずさっきもらった紙袋と、
後部座席の花束をいくつか抱えてエレベーターに走る。
もどかしくボタンを押すと、表示灯をじっと見つめた。
いつものスピードのはずなのに、遅く感じてしまう。
早く。
エレベーターが停まり、扉が開くと同時に、走り出す。
合図のようにチャイムをひとつ鳴らし、用意しておいた鍵で施錠を解いた。
朝は、行ってらっしゃいのキスをした。思い出すともうどうしようもなくなる。
おかえりなさいの代わりに、彼女からしてくれるのを、少し待ってみてもいいかな…。
ドアを開けると、廊下をこちらに駆けてくる彼女の姿が見えた。
「おかえりなさいっ」
荷物を床に下ろして、飛び込んでくる彼女を抱きしめた。
すぐに、身体を少し離して、彼女が背伸びをしながら顔を近づけてくる。
気付いて、俺の方も少しかがむと、彼女の唇がそっと自分のそれに触れた。
「おかえりなさいの、ちゅー…です」
離した後、小さな声でつぶやくその顔が真っ赤に染まっている。
もう…君は本当に…。
「ただいま」
再びぎゅっと抱きしめて、それからキスをこちらからねだってみた。
目を閉じて応じてくれる柔らかい唇をゆっくりと味わって
それから、扉を開くように奥へと求め合う。
玄関なのにね。
これからはずっと一緒にいられるんだから
わざわざこんなところでがっつくようにしなくたって…いいのに。
今日は昨日までよりもずっとずっと君のことを想ってた。
多分明日も、その次の日も、毎日新しく君のことを好きになる。
朝のケーキを思い出した。
それよりも、何倍も甘い君の唇と繰り返されるキス。
ほら…これからの毎日がきっと、ケーキよりも、甘い生活。
そうだろう?
2006/01/21 OUT