「まあ、大したことじゃないんだろうが、私物がなくなったりとかそういうことが何度かあったみたいでね」
たまたま寄った事務所で、そんな話を耳にした。
タレント部門主任の椹さんとスタッフの人の会話。
そしてもちろん、俺ではなく…彼女の話。
「えぇ?何にも言わないから、わかりませんでしたよ」
「そういうことを言う子じゃないんだよなぁ…まあ、こっちも現場に出向いていくわけにもいかないからなぁ」
この世界は、往々にしてそういうことがあるものだ。
個人で解決するしかないと言えばそうなんだろうけど…俺にもそんなことは何も言わなかった。
「先輩」なら、相談しやすいんだろうか。
俺はその前に、もう「恋人」で。
だから心配かけさせまいとして言わなかったのかもしれない。
…キョーコ。俺はそんなに頼りない?
俺も同業者だし、そういう弱音を吐きたくないことは、わかるよ。
でも、こうやって君以外の人間から聞かされるほうがよっぽど心配だ。
知られたくなかったのかもしれないけど…もう知ってしまった。
君を心配することすら、俺には許されないのかな。
それにしても、いつからなんだろう。
椹さんの話しぶりでは、昨日今日の話ではないらしい。
俺と逢っている時の彼女は、まったくそんな素振りは見せなかった。
だから、余計に気付けなかった。
時に強情で、我慢強い恋人だと見抜けなかった自分に、改めてため息をついた。
*
「何かあったのか?」
ほらきた。
集中しきれてないのを見抜かれてる。
「何もありませんよ」
はぐらかしてはみるものの、なおも疑り深い目で見上げてくる。
俺と彼女のほとんどを知るマネージャーに、嘘はつけない、のだけれど。
「キョーコちゃんと…」
「ちょっと社さん人が聞いてますから」
人目もはばからず彼女の名前を出されて、うろたえる俺にニヤリと笑う。
しまった…。
「…別に彼女と何かあったわけじゃありません」
「お前に他の理由があるわけないだろ」
「う…まあ、そうと言えばそうなんですけどどっちかというと彼女個人のことで、俺はあんまり関係ないみたいで」
「そう?だったらそういう時こそお前がちゃんとしてあげなきゃ」
「…それが…俺は直接聞かされてるわけじゃなくて…」
いつもならかわすところだけど、あっさりと陥落してしまった。
悩みすぎでガードが緩くなってるのかもしれない。
それに、いつも彼女のことではさんざんからかわれてしまうんだけど
今日はなんだか社さんも少し真剣に話を振ってくる。
そんなにヤバかったか、今日の仕事…。
「蓮、事情を詳しく知ることだけが、相手にしてあげられることじゃないよ?」
え…?
「お前にできることは、他にもいろいろあるだろ?…もちろんそれは、自分で考えなきゃいけないんだけど、ね」
「はあ…」
「まあ、とりあえず仕事をきちんとやってから。それから考えること」
………思いのほか、的確なアドバイスをもらったような気がする。
でも、社さんの言うとおりなのかもしれない。
何で言わなかった?なんて、問い詰めなくても、俺が彼女にできることは、きっと他にある。
少し気持ちが軽くなった。
彼女が言いたくないなら、言わなくてもいい。
例えば自分を犠牲にするほどに無理してるわけじゃなければ、それで…。
*
かと言って、実際彼女が何も言わなければ俺も普段どおりにするしかない。
こちらから聞くこともできないし、しばらく忙しくて約束もしていない。
逢いたい。
顔を見て、安心したい。
もう少し頻繁に逢えたなら、ちゃんと君の異変にも気付けるかもしれないのに。
ドアに鍵を差し込んで、部屋に入る。
電気をつけて廊下を抜けた先のリビング。
1人でいるこの部屋は広すぎる。
君がいてくれることが増えてきて、ひとりでいると余計に広く感じるようになってしまった。
ああ、君に…逢いたいな…。
ソファに座っても、思い出すのは恋人のこと。
今、何してるんだろう。
仕事は終わったんだろうか。
いつもなら眠る前にメールか電話をするけれど、今日はまだ少し早いかな。
もう少ししたら、電話をしてみよう。
なるべく普段どおりに。彼女には気取られないように…。
取り出した携帯電話をテーブルに置いた瞬間、
メール着信の音が部屋に響く。
慌てて手にとってディスプレイを確認すると…。
彼女だ。
開いて画面を呼び出す。
いつもどおりの文面でもいい。なんでもいいから…気配を確認したくて。
件名:キョーコです
本文:今どこですか?おうちに行ったらダメ?
彼女らしくストレートな、だけど予想もしなかった内容に少し驚きながらも、
震える手を辿って、返しておいた。
件名:いいよ
本文:帰ってる。暗いから気をつけておいで。
返信してからふと思う。
来てもいいか、って、一体今どこにいるんだろう。
夜で暗いんだから、無理はしないで欲しい。
現在地を言ってくれればそこまで迎えにだって行ける。
そう思って電話しようとしたら、チャイムが鳴る。
近くまで来てたのか。良かった…。
そんなことを思いながら玄関まで迎えに出ると、
既に入ってきていてもいいはずの姿が見えないのに気付く。
合鍵はとっくに渡してある。
いつもはチャイムを鳴らした後すぐにドアを開けて自分から入ってくるはずなのに。
不審に思いながらもドアを開けると、そこにはいつもの微笑みと共に佇んでいる恋人。
「いらっしゃい、キョーコ…鍵…忘れた?」
「ううん、持ってます…」
言葉を濁して柔らかく笑いながら、俺の胸にそっと身体を寄せる。
迎え入れてからそっと抱きしめてみると、彼女の腕も俺の身体に触れて。
さっきに繋がる言葉はもう出てこない。
この短いやり取りの中でも…いつもと様子が違うことくらい、
何も知らないことになってる俺にだってわかるよ。
そうやって君は、表向きから尋ねさせてはくれないんだ。
だけど、こうやって突然逢いに来ることなんてめったにないだろう?
だから…一度だけ。
「…キョーコ、何か…あった?」
本当は何かあったらすぐにでも言って欲しい。
俺を頼って欲しいけど、でも、君にだって君の考えがあるだろうから。
「ん、何でもない。…ごめんなさい、こんな時間にいきなり来ちゃって…迷惑、でした?」
「そんなことないよ、早く上がって」
そう言って再び手を取って引き寄せると、そっと指を絡められた。
ぎゅっと握り返すと、身体ごと俺に寄りかかるような格好になる。
少し、いつもより甘えモード、なのかな。
…そうか、君はこうやって…。
じゃあ俺も精一杯、君をとことんまで甘やかそう。いつもみたいに。
いや、いつも以上に。
隣に座ろうとする彼女を膝の上に座らせた。
彼女の為に用意したお茶を渡す。
彼女も何も言わずに素直に俺の膝に座り、俺に身体を預けてそれを飲む。
髪を撫でて…身体を包むように抱きしめて…。
そうやっていることで、彼女よりも自分が癒されていくような気がした。
言葉のない彼女にどうしようもなく不安を覚えていた自分が。
彼女も同じように思ってくれていればいいけど。
ふと昼間の社さんの言葉が頭に浮かぶ。
こういうことなのか…。
これが、今の彼女に対して自分ができることなんだ。
嫌なことを思い出させるよりも、それを少しでも減らしてあげられるように。
ふたりでいる時、を、楽しく穏やかに過ごせるように。
「泊まっていく?」
「ん…いいの?」
「いいよ。明日の朝は?早い?」
「8時。がんばれば、間に合う、かな…」
「…ちゃんと起こしてあげるから、大丈夫」
風呂に入らせた後、ベッドを作り直してから自分もシャワーを浴びて戻ると
既にベッドで丸くなっている恋人。
隣に滑り込み、抱き寄せると彼女からもぎゅっと抱きしめられる。
「寝てた…?」
「ん…ちょっと、寝てた…」
うとうとしてたせいなのか、寝ぼけた声が舌ったらずで可愛らしい。
本当は、寝かせたくないけど、でも今日はそんなことはできないな…。
今日はゆっくり、ふたりで眠ろう。静かな夜だって、俺には十分だよ。
「おやすみ、キョーコ」
電話で告げることの多い、1日の終わりの挨拶をそっと囁いた。
それから、唇に触れる。それだけのキス。
目の前に君がいて、おやすみと言える。今日はこれで良い。
「ん…おやすみなさい、敦賀さん…」
唇が離れた後、彼女がかすかに呟く。
慌しく身体を繋げるよりも、幸せに思えた。
すぐそばにある穏やかな熱に浸透されて…。
言葉よりも大切なもの。
今日は…少しそれに近づけた、そんな気がする。
2006/01/06 OUT