「あ…まただ…」
室内に入った後、ささやかな異変に気付いて、
1人になった気のゆるみからか、大きなため息をついた。
鍵をかけているはずなのに、なんでこんなことになるのか
私にはさっぱりわからない。
なくなるものは、大したものじゃない。
携帯電話が被害に遭わないだけ、マシなのかもしれない。
偶然じゃなくて、それなりのプライドなのかな。
大ダメージを与えたいわけじゃなくて、じわじわ責めるのが好きなのかしら。
私ならこんなことはしない。
コソコソするのは嫌だし、言いたいことがあったらちゃんと口で言う。
何が気に入らないのか知れないけれど、こんなことで凹む私じゃ、ないんだからね。
帰り支度を整えて、私は控え室の扉を閉めた。
少し前から、撮影現場で私物がなくなることが増えてきた。
私は、学生の頃からそんなことが当たり前だったし、
実際もっとヒドイことされてきたし、物がなくなったりしただけでは、びくともしない。
本当はときどき、それって人としてどうなのかしらと思わなくもない…けれど、
とにかく私の人生が今までそんな風に進んできたから耐性がつくのはもっともな話よね。うん。
正確に言うと、自分では…耐性が、ついてると思ってたの。
今まで生きてきた中で、無条件に存在を認められたことって
よく考えてみたらほとんどなかったのだし、
自分のことは自分でやらなくちゃ、誰も助けてくれない、って知ってた。
暗い谷底に突き落とされたような気がしたあの日、から。
ううん、多分…もっと前から。
誰かから悪意を持たれていたとしても、私が今ここに存在していることは
よっぽどじゃないと変えられない事実なんだから、
もし他人からそんなに疎まれているなら、せめて自分だけでも「私」を
守らなきゃ、って、思ってた。
でも…でもね、敦賀さん。
この世界に入って、いろんな人と出会って、いろんなことを経験して、
それから、何よりも、あなたが無条件に私を愛してくれて、
恋人同士になって…世界が変わってしまったの。
見上げたら、敦賀さんのマンション。
考え事をしながら、気付いたら…?
違う。私が、彼に逢いたくて。敦賀さんに逢いたくなって、足が自然に向かってた。
やっぱり、ちょっとは落ち込んじゃう。
あんなことされたら、誰だってそうよね。
自分はなんともない、って思ってたけど、違う、違うの…
もう、あの頃の私じゃない。
優しさに触れたら触れたぶんだけ、尖ってた心が柔らかくなる。
そこにピンポイントで悪意が忍んできたらどうなるかなんて、考えるまでもない。
だけどそれは、私が弱くなったんじゃなくて、守りたいものが増えたから。
私を想ってくれる人の為に、自分を大事にしたいと思うようになったから。
仕事の相談はたまにするけれど、愚痴なんて、言わない。
意地悪されてるなんて、もっと言えない。
ただ、顔を見たら、触れたら、抱きしめられたら、名前を呼んでもらえたら、
それだけできっと私はまた、大丈夫になれる。
件名:キョーコです
本文:今どこですか?おうちに行ったらダメ?
わがままを叶えて欲しくて、暗い中ぽつりぽつりとメールを打った。
顔を見て、声を聞きたいから、電話はやめたの。
突然こんなことをして、彼はびっくりするかもしれないけど、
私の様子を見抜いて、何事かと問いただすかもしれないけど、
でも、きっと無理強いはしない。
いつも通りに甘えさせてくれる。そんな気が、するの。
件名:いいよ
本文:マンションにいるから、気をつけておいで。
間もなく、携帯が震えてメール着信を教えてくれる。
点灯したバックライトが闇に浮かんで、そのコントラストが目に飛び込んできた。
明るく光る画面から、敦賀さんのぬくもりが感じられるようで、胸があったかくなる。
ディスプレイに映る無機質な文字の羅列でさえも、
あの人が指を滑らせて私のために作ったんだと思えば、愛おしくてたまらない。
こんなに近くにいるなんて思ってないだろうから、きっとすごくびっくりするはず。
逢いたい。
…って、私が思うのと同じくらい、敦賀さんも私に逢いたいと思ってくれてたら、いいのに。
すぐに逢えるだろう恋人の顔を思い浮かべた私は、
感じていた憂鬱の半分くらいが消えているのに気付きながら静かにマンションへ入った。
*
エレベーターに乗って、ドアが閉まるのを眺めた後、壁にもたれかかる。
敦賀さんは、私がいきなり部屋に来たことをどう思うのかな。
現場でのトラブルっていうほどのことじゃないから、事務所の人には何も言ってない。
相手にしなければそのうち向こうもバカバカしくなるだろうと思うし。
だから、私が敦賀さんに言わなければ、彼も知りようがないはず、なんだけど。
ねえ、敦賀さん。
相談もしないで、ただ甘えたいなんて、ダメかな。
自分が立ち直るために、あなたをただ利用してるだけ、なのかな。
だけど、こんなこと、あなたに言うまでもないの。
言えばきっと心配するでしょう?
私でさえ、取るに足らないことだと思っているのに、
そんなことであなたに負担をかけるわけにはいかないの。
本当に、自分じゃ手に負えないと思うことがあったら、
きっと誰よりも最初にあなたに相談する。
そんなことができるくらいには、あなたに近い場所にいるって、信じてるから。
…これがもし、逆の立場だったらどうかしら。
敦賀さんが、何か悩んでて、それを私には黙ってて…。
うー…ん…後から本当のことを知ったら、そりゃあちょっとは驚くかも。
あ、わかった。
敦賀さんが、私に黙ってるのはきっと、今の私と同じ理由よね。
それで、私は…もし私が他の人経由でそれを知ったなら、
言ってくれたらいいのに、って思いながらも問い詰めたりはしない。
敦賀さんが1人で解決するって、そう思ったのなら必要ないもの。
詳しく聞きだすことよりも他に私ができることがあるとしたら、それをしてあげたい。
もし、すごく無理をしてるようだったら話はまた別だけど。
ああ、そっか…。
だったら、今日私が敦賀さんに逢いたいと思う、
彼に甘えたいと思うのも…ずるいことじゃ、ないよね。
落ち込んでても、いいことがあっても、変わらず、敦賀さんのことを想う。
いつだって、私にとってはあの人が一番の支え。
それが、今の私だから。
そして、そう結論を出した私が目を開けるのと同時に、
敦賀さんのお部屋があるフロアに到着したことをエレベーターが教えてくれた。
エレベーターを降りてからはいつもどおり。
敦賀さんのお部屋へ1人で来る時と同じように、ドアの前に立って、
それからチャイムを押した。
鍵は、カバンの中。
今日は…敦賀さんに開けてもらいたくて。
そして、敦賀さんに、私を、迎え入れて欲しくて。
「いらっしゃい、キョーコ…鍵…忘れた?」
「ううん、持ってます…」
敦賀さんがすぐに出てきてくれて、不思議そうに問う。
今日は…あなたに鍵を開けてもらいたかった。
敦賀さんに不審に思わせないように言葉を濁したけど、
そんなことをした時点で、鋭い彼のことだからきっと気付いてる、かも。
でも、私が何も言わないから、多分聞いてこない。
薄情でも何でもなくて、それが敦賀さんの優しさだから。
「…キョーコ、何か…あった?」
だけど、出迎えてくれた敦賀さんの腕の中に身体を収めて少しした後、
敦賀さんが私に尋ねた。
…何も聞かれたくないわけじゃない。
多分、私の様子がおかしいことに気付いて、すごく心配してくれてる。
今のはそんな声だった。
あたたかいその声が身体にしみこんできて、涙が出そうよ。
大丈夫。
顔を見て、触れて、抱きしめてもらって、それから優しく名前を呼んでもらった。
それだけで…いいの。
「ん、何でもない。…ごめんなさい、こんな時間にいきなり来ちゃって…迷惑、でした?」
「そんなことないよ、早く上がって」
繋いだ手、指を絡ませてみた。
敦賀さんがすぐにぎゅっと握り返してくれて、それが嬉しくて身体を預けてみた。
並んで歩いているから顔ははっきりとは見えないけれど、
敦賀さんがやさしく微笑んでくれてるような気がして、心がじーんとあたたかくなる。
来てよかった。
本当に、よかった。
*
「今日も疲れただろう?はい、お茶」
ソファに腰掛けた敦賀さんの膝の上に座った。
手渡されたマグカップには、熱い紅茶。
両手で抱えるようにして口をつける。
敦賀さんの手が私の腰のあたりにそっと回されていて、
マグカップから口を離した私は、彼に寄りかかるようにして身体を少し倒す。
お茶を飲んでいる私も、私を抱っこしてくれている敦賀さんも、黙ったまま。
2人きり、何を話せばいいのか戸惑ったときもあったけれど、
すぐにそんなことを考える必要がないって気付いたのを思い出す。
構えなくてもいいんだって…わかったから。
無理に会話で場を繋げようとしなくても、いい。
言葉を使わなくても、それ以外のいろんなやり方で、
相手に自分の気持ちを伝えることができるって、
敦賀さんとこういう関係になってから、知ったの。
あなたが教えてくれたのよ、敦賀さん。
大きな手が私の髪をそっと撫で始める。
相変わらず黙ったままの私と敦賀さんだけど、
言葉で伝えるよりもきっと、
こうして触れ合っているところから伝わるもののほうが
大きいんじゃないかなって、思う。
今日、あなたに逢えて本当に嬉しい。逢いに来てよかった。
私、ちょっとだけヘンだったかもしれないけど、もう大丈夫だからね。
それにしてもいつも思うことだけど敦賀さんってスゴイ。
顔を見て、抱きしめてもらっただけで、本当にホッとした。
ヒーリング効果、かな。
もう何度目だろう?あなたに…こうして癒してもらうのは。
あなたにこんな風にしてもらえるのは、私だけ。
尊敬する、世界で一番大好きで大切な人が、
時には専属のヒーラー…セラピストになるなんて…私、本当に幸せ者かも。
「泊まっていく?」
後ろから聞こえてきた静かな声が私を包む。
…ん。
実は、ちょっとだけ、思ってたの。
今日は…あなたに抱きしめられて眠りたいな、って。
心の中、読まれちゃったかな。
私の心の中を読んで、敦賀さんがそう言ってくれたのかな。
そのうち、テレパシーで会話できるようになるかも。
なんて思いながら、そっと敦賀さんの方を向いた。
ありがとう、敦賀さん。いっぱい…ありがとう。
2007/09/20/ OUT