「ほら、蓮、あそこ」
事務所のロビーでの簡単な取材のあと。
椅子から立って、記者の人に挨拶をして別れてすぐに、社さんが俺を小突いてこっそりと呟く。
何のことかと思いながら彼が向いている方角に目をやると、そこには、彼女の姿があった。
顔が自然と緩んでいくのが自分でもよくわかる。
もちろん、2人きりで逢っている時もとても嬉しいんだけど、
こうやって思いもかけず出先で遭遇できるその喜びは、種類が違うみたいだ。
社さんにからかわれるのも承知で、こっそりと彼女の様子を盗み見てみた。
彼女も取材か何かなのか、数人の人たちに囲まれてニコニコと話している。
表情がクルクルと変わり、それはそれは楽しそうに見えた。
誰にでもあんな風なのが可愛いところでもあり、俺を悩ませるところでも、あるんだけれど。
「最近キョーコちゃん、ますます可愛くなったよなぁ~」
ついうっかり恋人を遠目にして見とれていると、隣に立つ社さんの言葉が耳に入る。
そうかな…いつもとても可愛い、けど。
誰にでも笑顔で応対して、挨拶もきっちりと。
俺といる時には、こんな人前では出せないような甘えたなところも、ちらと覗かせて。
本当は華奢で夢見がちな女の子だけど、
守ってやらなきゃ、というよりも、逆に俺の方が彼女に守られてるような、そういう顔も…持ってる。
そのすべてが、俺にとっては可愛くて仕方がない。
いつもと変わらないように見える、その笑顔。
だけど…確かにこの世界に入ってきたばかりの頃よりも…空気が丸くなった気が、しないでもない。
そうやって、俺よりも顔を合わせることが少ない、
けれど彼女の今までをよく知ってる社さんがそう言うんだから、それは多分そうなんだろう。
ということは、他にも同じ事を思ってる人間がいないとは限らない。
いや、いるに違いない。
こんな世界だし、スキャンダルでもない限り注目を浴びるのは喜ばしいことだ。
それは俺もよくわかってる。
彼女にはもっともっと良い仕事をして欲しいと思うし、
目指す道を歩いていければいいと応援もしてる。
俺にできることならなんでもしてやりたい。
芸能人である彼女と、俺の恋人である彼女と。
両方の顔を知っていて、磨かれていくそのそばでずっと見守ってきたけれど、
それは、俺だけの特権、というわけじゃ、ない。
プライベートな彼女は別として、芸能人として成長していく彼女は、誰にだって見ることができる。
途端に、芸能人同士として理解してやれる自分じゃないほうの俺が…顔を出す。
そんな風に俺以外の男に微笑んだりしないで欲しい。
俺だけに笑ってて。
ほら、そんな表情して見せて、誰かが君に必要以上の興味を抱いたらどうする?
いつもそばで見てるわけにはいかないんだから、気をつけて。
そうでなければ駆け寄って行って、ここにいる全ての人たちに、
君は俺のものなんだと言い放ってしまいそうになるよ…。
醜い感情を禁じえない自分をどこかで嘲りながら、
彼女をどういう想いで見ていたかなんてとっくにお見通しの社さんに茶化されながら
次の現場へ向かった。
その車の中でも、頭を占める彼女のこと。
今度彼女に逢うときには、
さっきみたいな醜い独占欲が頭をもたげてきそうな自分がまざまざと思い浮かんで、軽い自己嫌悪を抱いた。
彼女を…彼女の心を手に入れることができただけでも十分だというのに、
それ以上に「ひとりじめ」しようとしてしまうなんて。
*
キンコーン
チャイムが鳴ったあと、玄関に向かうと、彼女がいつものように合鍵で扉を開けている。
久しぶりの逢瀬。ウキウキする気持ちももう、抑えきれない。
「やあ…いらっしゃい」
「お久しぶりです」
どこか他人行儀のように挨拶を交わした後、彼女が俺にそっと身体を寄せた。
その身体をぎゅっと抱きしめて、改めてその感触を味わう。
この前に触れたのはいつだっただろう…?
呆れるほどに抱きしめて触れ合っても、少しの温度を残して消えてしまう君の身体の記憶。
だから、逢うたびにこうして抱きしめずにはいられない。
次に離れなくてはならないときまで、ずっと…。
「本当、久しぶりだね…」
「ふふっ」
こちらを嬉しそうに見上げるその顔に手をやり、頬をなでる。
こうやっていつまでも君の笑顔をひとりじめ、していたい。
できたら…俺だけの為にそうやって、笑ってて…。
だけど少しの間を置いて、微笑んでいたその表情が少し曇る。
「敦賀さん…何かあったんですか?このあたり、ピリピリしてる…」
唐突な彼女の物言いに、俺の方が呆気に取られてしまう。
まいったな…。
怒ってるわけじゃないんだ。
そうじゃ、ないんだけど…どうしてわかるんだろう。
つい数日前。
仕事をがんばっているキラキラした君の笑顔に出逢って
それを誰にも見せたくないと思ってしまったことなんて、
君が出会う人すべてに優しくて、明るくふるまう様子に嫉妬してしまったことなんて、
永遠に俺だけに笑ってて欲しいと願ってしまったことなんて…。
言えるわけ、ないだろう…?
「なんでもないよ」
笑って否定してみても、まだ少し疑いのまなざしを俺に向ける彼女にキスをした。
唇からもわかってもらえるように額に押し付けたそれを離しても
依然として、険しい顔をしている。
「なんでもない、大丈夫だよ」
安心させようとして、もう一度つとめて柔らかくそう呟く。
同時に、俺の身体に回されていた彼女の腕がぎゅっと俺を抱きしめた。
キョーコ…。
「何かあったら、何でも言ってくださいね?」
とても心配そうな顔。
ああ、ごめん…違うんだ。
そんなつもりじゃなかったのに…ごめん。
せっかくこうして久しぶりに2人きりになれたのに、
余計な心配をさせてしまったことを反省しながら彼女を連れてリビングに向かう。
もう、大丈夫。
ここでの君は、俺以外は知らない笑顔。
そんなこともわかってるのに。
俺はダメだな…。
手を引いてソファに座ると、やや遅れて彼女が掴まるようにして
俺の膝の上にちょんと腰を下ろした。
身体に腕を回して、自分のほうにぐっと引き寄せる。
ほら、もうちょっとこっちにおいで?
すぐそこにある、柔らかくて少し熱いその身体を抱きしめて、それからキスを求めた。
応じてくれる素直な唇と舌をたっぷりと味わって…
何も入る隙間がないくらいぴったりくっついた後、
唇をゆっくりと離しながら、彼女の表情を窺う。
頬を少しだけ染めて、はにかんだように笑うその顔を
久しぶりに見られたことがとてもとても嬉しくて、俺もつられて、笑顔になる。
2人で笑い合って、それから顔を寄せて、もう一度キスをして…。
自分だけに笑っていて欲しい。
そう思ってしまうのは多分仕方のないことだ。
愛する存在を持つ人は誰もが、そんな葛藤を抱えて日常を過ごしてるんだろう。
だけど、俺に向けてくれる笑顔はやっぱり、俺だけの、彼女の顔。
俺を心配してくれる彼女も、俺のことを好きだと言ってくれる彼女も、
みんなみんな、俺だけの。
わかってる。
俺は、君が俺以外の人に見せる顔も、俺だけに見せてくれる顔も、
両方の君を知ってるたった1人の存在なんだって。
君はちゃんと俺に「ひとりじめ」、させてくれてるんだね。
2006/06/07 OUT