顔を合わせた時から何だかおかしいな、という気はしていた。
毎日一緒にいられるわけではないからこそ、
顔色とか、ふとした何気ない仕草に映る体調の変化とか、
それこそ纏っているオーラのような、そんなものにまでやたらと敏感になる。
様子が少し変だと感じたのは今日が初めてじゃ、ない。
今年は夏がうだるように暑くて、
その分室内では効き過ぎるくらいの空調がなされているところが多く
夏ばてしてしまう人がいつもの年よりも多いのだと言っていた。
顔色の他には特におかしなところもないし、彼女も多分そうなのだろうと思って、
それでも今日はあまり体調が良いほうではないのが見て取れたから
俺と彼女と俺のマネージャーの社さんと3人で
食事でもしに行こうという話をとりやめるか思案していたその時、
口元を押さえて彼女がトイレのある方向へと駆け出して行った。
顔が驚くほど青ざめていた。
突然のことに驚いて、後を追って行こうとした瞬間、隣の社さんに静止された。
慌てて彼を見ると首をふるふると振っている。
「お前ここをどこだと思ってる?もうちょっと待て。キョーコちゃんが戻ってきたら
駐車場まで送ってやるから」
そうだった。
ここは事務所の中でも割りと人目につきやすい場所。
関係を公表してないゆえの身動きの取りづらさに短くため息をつく。
2人きりの場所ではともかくとして、こんな所では俺には何もできない。
せいぜい、戻ってくるだろう彼女に、気遣いの言葉の一つもかけるくらいしか。
「ちゃんと様子見といてやれよ。とりあえずお前のできる範囲でかまわないから」
「ええ」
その、自分にできる範囲、というのが今の俺には狭すぎるんだ。
公に気遣うことも容易ではないし、ずかずかと彼女の内側へ踏み込んでいくわけにもいかない。
だから、彼女には俺のことよりもまず自分のことを気にして欲しいといつも思う。
俺のことを心配してくれるのは嬉しいけれど、俺を気遣おうとする彼女の方が青い顔をしていたのでは
…本末転倒もいいところだ。
君がちゃんと健康で笑っていてくれること、が、俺の一番の幸せでもあるのに。
「キョーコちゃん、大丈夫?顔青いよ?なんか疲れてるみたいだね」
「あ、大丈夫です、ちょっと忙しくて体調崩しちゃったかな、すみません」
そんな考えをめぐらせているうちにとりあえず戻ってきたらしい彼女が
社さんと交わしている会話も、俺の耳にはきちんとした形では入ってこない。
ちょっと?
そんなわけないだろう。自分がどんな顔をしてるのかわかってないんだろうか。
彼女の様子を見ているうちに、なんとなく腹だたしくなってきた。
自分のことをあまり顧みない我慢強い彼女に…そして何よりも毎日そばにいてやれない自分に。
目が合った彼女の顔が、明らかに少し怯えているのに気付く。
…しまった。そんなつもりじゃなかったのに。
とりあえず彼女には微笑んでみせた。つもりだったはずが、そうではなかったらしい。
ますますぎこちなくなる俺と彼女の間の空気を察した社さんが、
必要以上に明るく、そして素早く俺たち2人を促して歩き出した。
*
「どうして何も言わなかったの?」
目に付きにくいところで社さんと別れた後、彼女を車に乗せてから自分も運転席へと落ち着いた。
隣で済まなさそうに小さくなる彼女に向かって開口一番、こんな言葉をぶつけてしまう。
一瞬目を伏せてからこちらを向いたその表情は、いつもとほとんどかわらない笑顔。
「大したことないですよ」
「そんなわけないだろう?…今日は帰ったらおとなしく寝てて」
彼女の言葉に応える自分の口調がいつもよりも硬めなのがわかる。
当然彼女もそれを感じ取って、ますます空気がおかしくなる。
違う。
そんな風に追いつめたいんじゃなくて…あぁもう…どうしてもっと優しくできないんだろうか、俺は。
ただ心配で仕方がないだけなのに。
言葉じゃどうにもならないそれをちゃんと伝えたくて、彼女の柔らかな髪にそっと手を伸ばす。
「俺の部屋でいい?1人でなんて、帰せない」
俺にもちゃんと君のことを心配する権利があるんだと、確かめさせて欲しい。
言葉の端にそれをにじませながら呟くと、彼女はそのままこくりとうなずいた。
空気が少しずつ緩んでいく。
そのことに心底ほっとしながら、車を発進させた。
*
ベッドルームでパジャマに着替える彼女の様子を近くで眺めて、
やっぱりその顔色がさっきとあまり変わっていないことに気付いた。
本当にただの夏ばてなんだろうか。
仕事が忙しくて、という話は聞いていたけれど、
もしかしたら他に何か体調を崩すようなことがあるのかもしれない。
しかしそれ以上言葉にしてくれない彼女に対しては、俺はもう、注意深く見つめるしかできない。
「顔色悪いな…、熱は…ないみたいだけど」
「だから本当に大丈夫ですから」
「ダメ。寝てなさい」
宥めるように額にキスをした。
ほんのりと感じられる体温から、それ以上の何かは伝わってこなくて、
その代わりに彼女が俺にぎゅっとしがみ付く。本当に…何も無ければいいけれど。
華奢な身体を一度だけぎゅっと抱きしめてからベッドに静かに横たえた。
「リビングにいるから、何かあったら呼んで?」
そう告げてベッドから立ち上がると、服の裾を掴まれていて動きが制限されてしまう。
ビックリして彼女の方を向くと、その瞳が微かに揺れて、行かないで、と言っているように見えた。
1人でゆっくり休んだほうがいいだろうと思ったけれど…俺が近くにいても、大丈夫なら。
「キョーコが寝るまでここにいる」
彼女の隣に自分の身体を横たえて、こっちを見つめる頬をゆっくりと撫でた。
安心したように彼女が目を閉じる。
ゆっくりお休み…ずっと、そばにいるから。
*
眠りに落ちていく彼女の顔を見ていたつもりが、どうやら自分も眠っていたらしい。
すぐそばで何か空気が動いたような気がして目を覚ます。
ドアの開くような音につられて起き上がると、隣にいたはずの彼女の姿がない。
不審に思ってベッドルームを出た。
灯りを落とした静かな廊下の中、やがてトイレの水を流す音が聞こえてくる。
もしかして、と思いそのまま壁にもたれて立っていると、
口を拭いながら彼女がドアを開けて出てきた。
そんな彼女の顔色はやっぱりあまりよくなくて、
なのにその姿をじっと見つめている俺に気付くと、またしても無理に笑おうとする。
「病院に行こう」
「や、だ、大丈夫」
どこか普通じゃないのを感じ取ってそう彼女に言うと、
彼女はまた同じ言葉を繰り返す。
大丈夫って…大丈夫なんかじゃないだろう。
「大丈夫じゃないだろう?俺が見てる時だけでも2回もそんな状態で─」
「2人でこんな時間に病院なんか行ったらバレちゃうしっ、大丈夫ですからっ!」
どうしたらわかってもらえるんだろう。そんなにキツそうにしているのを見るのは初めてなんだ。
俺にはもうそうやって言うしことかできないんだから、と思うと身体がヒリつき、
喉の奥が焼け付くような感触で、やっとのことで口にした言葉が彼女に遮られた途端、
そんな想いが強く声に出てしまう。
「キョーコ!」
自分の思うより大きなその声に、少し離れて立つ彼女がびくっと身体を震わせて目を閉じる。
一瞬だけそんな風に怒鳴ってしまったことを後悔しながら、
だけどなんとしても話を聞いてもらわないとこのまま平行線になってしまうと思った俺は
静かに彼女の方へ近づいて、固まった身体を柔らかく抱きしめた。
さっきの彼女の言葉を頭の中で反芻する。
バレるから嫌だなんて…そんなことを言わせなきゃならない事情に心が痛い。
この関係を普通に公表するだけでどんな騒ぎになるかは俺にだって想像が付く。
それが、病院に付き添ってきたなんてことになると、事態はそれ以上にややこしいだろう。
だけどそんな場合じゃない…俺はそんなのよりも君の方がずっと大切だし心配だ。
悪いことをしているわけじゃないのに、どうして罪悪感を感じなくちゃならない?
ふとした瞬間に絶えず繰り返してきた自問自答が頭を廻りだす。
「バレるとか、そういう問題じゃない」
「…ほんとに大丈夫ですから」
やがて彼女が俺の身体にぎゅっと腕を巻きつける。
くぐもった声が静かに響いて、だけど俺はやっぱりその言葉にどうしても反論したくて先を続けた。
「どうしてそんなに意地っ張りなのかな…」
そんなことは最初からわかってたけれど、
こんな時には俺にくらいは甘えてくれたってバチは当たらないと思う。
「明日も仕事だろう?そんな身体でもし倒れられたりでもしたら、俺の方の身が持たないよ」
いつも目が届くような近くにいることも、今の俺にはできないんだから。
言葉よりも近くにある彼女のぬくもりにそっと顔を埋めた。
俺は怒ってるんじゃなくて心配してるだけなんだ。わかってもらえただろうか。
それとも、俺には君を気遣ったりすることも、できないんだろうか…。
君の事がこんなに、大切なのに。
「…んです…」
「え?」
しばらく抱き合っていると、ふいに彼女が何かを呟く。
良く聞こえなかった俺が身体を少しだけ離して顔を覗き込むと
彼女が真っ赤になりながらもう一度口を開く。
「せ…生理。いつからかわかんないけど…きてなくて」
生理…が、きてない…、って…。
そう聞いた途端に今までの彼女の様子だとかその体調の悪さが、
パズルを解いたようにピタリと組み合わさっていく。
半ば確信めいた思いが、考えるよりも速く言葉を押し出していた。
「もしかして…できた?」
なんだ、そう…だ、ったんだ…。
生理がきてなくて、体調が思わしくないということは、
つまり子どもが、出来てるかもしれないって、ことで…
「や、あ、あの、こないってだけで、別にテストしたわけじゃないし、多分違う─」
慌ててそう付け加える彼女を今度はさっきよりもゆっくりと抱きしめた。
落ち着け、と言い聞かせながら頭の中を整理してみる。
…子どもだって!?それも、他の誰のでもない、俺と、彼女の。
避妊を欠かしたことはないけれど、そういえば彼女は薬なんかは飲んでいなかったはずだ。
その時点で、こんな展開になることだって、可能性としてはあるんだ。
…やばい。嬉しくて、仕方がない。叫びだしてしまいそうだ。
これから先、彼女の身体にかけてしまう負担や、
今もじわじわと彼女に襲い掛かっているだろう俺には窺い知ることのできない戸惑い、
それから、結果的にこうなってしまったという自分の至らなさに、一瞬だけ心が曇ったけれど、
さっきまでのよくわからない焦りみたいなのと一緒にすぐにすうっと消えていき、
代わりにまったく別の感情がふつふつと沸いてくる。
そう…なればいいと思ったことが今までに少しもなかったわけじゃない。
そんなことを考えるたびに、本当にそうなればどんなに幸せだろうと、心が緩んだ。
密かに夢見てたこともあってか、急すぎる展開にしっかり着いていってる自分が可笑しく思える。
そうとなればすぐに結婚を申し込んで、もちろんOKしてもらって、
それから、順番が少しだけ違ってしまったことを彼女にもちゃんと謝って、
あぁ、社長にも報告して今度こそ世間に認めてもらえるようにしないと。
そうだ、何よりも先に病院だ。バレるからなんてもう彼女にも言わせない。
2人のことなんだから俺もきちんと付き添って、注意することなんかも
教えてもらわないといけない。
「あ、あの敦賀さん」
「病院行った?俺一緒に行こうか?朝ならついて行けるから…社さんに電話して」
「ちょっと待って敦賀さん、まだわかんないですから」
「とにかく病院に行こう、どこがいいかな…社長に聞いてみようか、そういうの詳しそうだし」
「ひゃ…」
大丈夫。
そりゃあ少しは不安にもなるだろうけど、俺がついてるから。
君は何も心配しなくていい。君も子どもも、俺がちゃんと幸せにしてみせる。
だけど…それよりも多分俺が一番幸せになるかもしれないな。
愛する人と自分の子どもの顔が見られるなんて…それ以上の幸せが、あるんだろうか。
彼女を抱き上げてベッドルームへと戻る。
腕の中で微笑むその表情はさっきとはがらりと違って、本当にいつもの彼女の笑顔だ。
俺と彼女にもこんなことが待っていてくれた。
そのことがただ嬉しい。
普段はまるで存在してはいけないかのように振舞わなくてはならないけれど、
それでもちゃんと、確かに俺と彼女の育んできた恋人としての想い、そして一緒に過ごした時間。
そのすべてが、存在していていいんだと認められたような気がして。
「じゃあ、ここでちゃんと寝てて。食べたいものはない?」
「ないです…」
ベッドに横たわり、俺の言葉に少し困ったように微笑む彼女。
やっぱり俺も困ったように笑いながら彼女の頭をくしゃっと撫でた。
「まあ…また気持ち悪くなっても大変だから、仕方ないか…本当は少しでも食べて欲しいけど」
栄養を取らないとダメだっていうけれど、今日は仕方がない。
またあんなことになれば彼女だってその方が辛いだろうし、すべては明日病院に行ってから。
それまでは、なるべく穏やかに過ごして欲しい。いざとなれば、俺だってなんとかできるはずだし。
ごめんなさい、と謝る彼女に微笑んでからそっとキスをした。
大丈夫、ゆっくり休むんだよ。
「とにかく明日病院に行こう?一緒に行く。大丈夫だから」
「はい…」
「それから社長にも報告して…あ、病院、どこがいいのかも聞いておかないと」
社長に報告するのは明日の朝一番でいいだろう。多分あの人は早起きだから。
それよりも、何かあったときにそばにいられるようにさっさとシャワーでも浴びてこないとね。
ベッドの上で少しだけ所在なさそうにしている彼女に改めてキスを落としてから
そう告げてベッドルームを後にした。
*
シャワーを浴びるために服を脱いでいる時も、
時間惜しさに慌しくシャワーのノズルをひねって
その中に身を寄せてみても、胸の奥がざわざわしてしまう。
何か悪い予感の前触れ、という類のものとは全く違って
これから起こるだろう人生の中でも1、2を争う素晴らしい出来事への微かな期待とか
環境ががらりと変わってしまうだろうことへのほんの少しの不安とか、そんなものなのだろう。
…キョーコ。いつだって、俺を変えてくれるのは、君だ。
本当の意味で1人じゃなかったんだと教えてくれたのも君で、
世界があんなに色鮮やかに染まっているんだと気付かせてくれたのも、君。
俺にはいつだって、君がいてくれる。
それが、俺にとってどんなに幸せで嬉しいことなのか、君は知っているかい?
それだけでも十分過ぎるほど幸せなのに…君はいつだってそれ以上のことを
俺にプレゼントしてくれる。
形のあるものだけじゃなくて…いや、形のあるものなんて数にすればほんの少しで
それ以上の大きなものを君からはたくさん、もらってる。
いわばもらいっぱなしなのに、俺は君に一体どれだけのことをしてあげられるんだろう。
きっと出来ることは本当はそんなに多くない。
だけど、きっと俺だけが出来ること。
それは…君がもういいというまで全身全霊をかけて君を愛すること。
それから、君のいるこの限りなく愛おしい世界をまるごと守ること。
ありがとう、キョーコ。
君に出逢えた俺は…本当に幸運で、幸せだ。
だから、いつか君も俺と同じように想ってくれるように、頑張るよ。
密かに浮かぶ強い決意と共に、生まれ変わったような気持ちでベッドルームのドアを開けた。
眠ってしまったのか、動かない彼女の身体にそっと近づいてから寄り添い、おなかのあたりに手を当てる。
呪文のように、大丈夫だよ…俺がいるから、と呟く。
何も心配いらないから、と…夢でも伝えられるように、彼女の体温に身を預けて目を閉じた。
おやすみ、キョーコ…本当に、愛しているよ…
*
隣でもぞもぞと動く感触。
それからベッドルームのドアが開いたらしき音が遠くに聞こえた。
あぁ、キョーコが起きたのかな。
俺も寝てる場合じゃない、よな…起きないと…
「ん…キョーコ…?」
また、気持ちが悪くなったんだろうか。
そんなことを考えながら、出て行ったのを追いかけようとしていたら、
少ししてから彼女が戻ってきて、ベッドのさっきまでいた位置に改めてもぐりこんだ。
「まだ寝ててください…」
起きようとした俺の耳にそんな言葉が優しく舞い降りる。
そんな場合じゃないだろう…病院のことを聞いてみないと、と心の中で呟いて
時間を確かめようとサイドテーブルの携帯電話に手を伸ばそうとしたら
その手を彼女がきゅっと掴む。
「今何時…?病院」
「もういいんです…」
もういい?
いや、いいわけないだろう…早くしないと時間がないって…
「なんで?…早く行かないと君も俺も仕事が…」
「いいの」
「え?」
寝起きのせいなのか、何となくズレた会話をしているような気になって
さっきからの一連の言葉達を思い出しながら頭で処理を始める。
もういいって…病院に行かなくてもいいって…ことか?
「きちゃったんです」
少しずつ速度を上げてきていた頭の回転が一気に早まる。
きちゃった…って…?
「…え、待って、ほんとに?」
「ハイ…さっき始まっちゃったみたい。ごめんなさい…」
ああ。
きちゃったって…生理がきたってことなんだ。
昨夜からの急展開がいきなり終わりを告げたことに
着いていけてるのかどうかわからないまま、彼女の言葉を胸に収める。
そうか…子どもは、できてなかったんだ…。
「そっか…、あー…残念…」
「ごめんなさい…でも、敦賀さんが…すごく…喜んでくれて嬉しかった。ありがとう…」
すっかり子どもができてるつもりでいた俺が脱力して思わず呟いた言葉に
彼女は照れくさそうに、だけどとても嬉しそうにそう言って、俺をそっと抱きしめる。
その顔が…俺の喜んだ様子が嬉しいと笑う彼女の表情が
とても愛おしく思えて、そんな彼女を見ることができただけでも十分なんだと気付く。
だってキョーコ、俺こそ本当に嬉しかったんだ。
昨夜、子どもができているかもしれないとわかってから眠りにつくまで、
今まで味わったことのない幸福感に包まれてた。
今までに経験したことのない出来事が、こんな風に突然
俺のところにやってくるなんて思ってもみなかった。
それが、強い想いに支えられているのにどこかおぼろげな俺と君の関係を
また少しはっきりとしたものに変えてくれた…そんな気も、する。
それに、「そういうこと」をしている恋人たちの間には誰にでも起こりうることを経験することで
俺の意思を改めてきちんと君に伝える機会が持てたことを、とても良かったと、思うんだ…。
「ん…俺はできてたほうが良かったな…あー、俺とキョーコの子ども、見たかった…」
少しだけ拗ねたように言ってみると、もう一度彼女が小さく笑う。
良い悪いじゃなくて純粋に…見てみたかった。
でも、もし本当にこんな風に順番を違えてしまうと、結局は君に大きな負担をかけてしまうから。
手のひらで彼女の頬にそっと触れた後、勝手なことを言ってごめんと呟いてキスをする。
キスに応じてくれる彼女の表情は、もうほぼいつも通りだ。
良かったと言うなら、きっとそれが一番「良かった」んだろう。
そして君は、きっととても不安だったろうに、俺が喜んでくれたと言って笑う。
俺も…そうやって君が俺の言葉に安心してくれたのが、嬉しいよ。
今回のことだけじゃない。
この先、何か不安なことが起きたとしても1人で抱え込まなくていい。
できるだけのことを、俺にもさせて欲しい。
だから、これからも、そのチャンスがあると、期待してもいいかな。
君に似た子か、それとも俺に似ているのかわからないけれど、
2人の子どもと…もしかしたらそれも1人じゃなくて2人、3人かもしれない。
俺と君と、そしてもし未来に存在するのなら、子どもも一緒に、
そうやっていつまでも穏やかに過ごせればいいと願う、
そんな望みを叶えられるチャンスがこの先にもきっと待っていてくれるんだと…。
「今度は…できるように…してみる?」
戯れでそんなことを口にしてみる。
途端に彼女が顔を赤くしてから、頬を少しだけ膨らませた。
ああ、怒らないで。ちょっと言ってみただけだから。
もちろん、君の許可なしにそんなことは、しない。
「冗談…同意もないのにそんなこと…しないよ」
そう言いながら、今度は頬に唇で触れた。
もちろんこれからだって「そういうこと」は、するつもりだけど、ね。
その代わり、君がこんな風に不安になることがないように…俺も一層気をつけなくちゃいけないな。
それと、これだけは覚えておいて欲しい。
「だけど、もしできたらすごく嬉しい。それは…本当だから」
子どもは…近い将来、君に結婚を申し込むことができた自分へのごほうびに、なるのかな。
彼女が安心したようにもう一度目を閉じるのを見ながら、そう、思った。
やがて、通り過ぎてしまったまどろみの時間を少しだけ取り戻すかのように彼女がすう…と寝息を立て始める。
あと2時間くらいは、こうしていられるだろうか。
俺はもう…眠れそうにないかな。
彼女の寝顔を間近にしながら、昨夜からの出来事をゆっくりと反芻する。
滅多にないことだろうし、これから先も「恋人」である限りは、ないほうがいい、出来事。
しかしやっぱり俺にしてみたら純粋に嬉しかったし、経験してみて多分良かったんだろうと思う。
考えうる限りでは最善の結末に収まって、これもこれで良かったんだろう。
恋人の寝顔が、そう言ってる。
そして2人だけの小さなパニックの後に戻ってきた平穏は、いつも通り甘い恋人の時間。
だけど、昨日までの自分と今日の自分が少しだけ違うように、
こんな出来事を経た俺と君も、昨日までとは少しだけ違う。
そうやっていろんな出来事を重ねていって、2人だけの軌跡が後にできるんだと思う。
そして、これからもこうやって…少しずつ「ふたり」に、近づいていこう。
喜びも苦しみも悲しみも、みんな…「ふたり」で。
2007/04/29 OUT