ハンドルを握る手に少しだけ力が入っていることに気づいた。
運転中だからといって平静を装ってみてもどこかに無理が出るらしい。
あと少しで恋人に逢える。そう思えば落ち着いてなんかいられないだろう?
今月は何度かゆっくり逢う時間があって、特に久しぶりというわけじゃないのに
彼女に逢えるという日はいつもこんな風に心臓の鼓動が早くなる。
例えば結婚をして毎日逢えるようになったとしてもそれは変わらないんだろうな。
そんな毎日に果たして心臓がもつのかということは置いておいて、
容易に想像できる自分の姿がいっそいじらしくなる。それでいい。
彼女のことは一生好きでいられる自信があるんだ。
一緒に暮らしながら彼女に恋をする毎日なんて、それ以上の幸せがあるだろうか。
顔を合わせて、触れ合うたびに気持ちが増えていって、離れている時には心の中にいる彼女をそっと抱きしめる。
そうやって毎日を過ごしていきたい。
彼女がこの世界の中で誰よりも一番好きだ。
言葉にすればいたってシンプルなこの気持ちを
あれやこれやと言葉で飾り立てて説明したくなるのはきっと、
街の雰囲気に当てられたせいなんだろう。
今日は、ああ、もうすぐ終わってしまうけれど、バレンタインデー。
街がまるごとハートやリボンでラッピングでもされてしまったように華やいでいて、
それで多分、改めて彼女と恋人同士でいられる幸せみたいなものを噛み締めたくなったのかもしれない。
想う相手がいなければきっと素通りしてしまうだろう。
だけど、そうじゃない。そうじゃないから…早く彼女に逢いたい。
そんな気持ちがアクセルをぐっと踏み込ませる。
「お疲れさまです」
いつもの待ち合わせ場所、人目につかない街路樹の陰に車を滑らせると、
彼女がそんな言葉と共に助手席に座る。
ここでいつもならすぐに抱き寄せてキス、というところだけど、
今日は彼女の手が両方とも塞がれていて、どうやら今すぐには無理みたいだ。
とりあえず、ということで、くすぐったがるほっぺたに唇を押し当てた。
「ごめんね、遅くなって」
「大丈夫です、私、少し仮眠取ってきました。それより敦賀さん…」
「ん、俺は大丈夫」
明日は、俺は仕事だけど彼女がオフ。
今日も遅くまで仕事だった俺を気づかう彼女の気持ちはとても嬉しいけど、
でも、ここ最近はずっと俺の部屋で過ごしていたから、久しぶりに2人でどこかへ行きたい。
もちろん、最後は俺の部屋なんだけど、その前に、少しだけ。
2人とも次の日に仕事があるのなら、こんな時間にそんなことはとてもできない。
バレンタインデーのプレゼントは俺も用意してきた。
もう一つ、プレゼントというには少し足りないかもしれないけど、
前にも行ったことのある夜景が綺麗な場所に、もう一度彼女と行きたくて。
「ちょっと遅いけど、行ってみようか?夜景がよく見えるところ。前にも行った…」
「いいんですか?敦賀さん疲れてない?大丈夫?」
「大丈夫だよ。久しぶりにデート、しよう?」
「はい…っ」
信号待ちで止まったところでそう提案してみると、彼女が嬉しそうに頷く。
良かった。喜んでもらえたみたいだ。
それだけでもう仕事の疲れなんてどこかへ行ってしまう。
少し長めのドライブも久しぶりで、いろんなことを話しているうちに目的地が近づいてきた。
見覚えのある景色を静かに進むと、やがて以前に一度彼女と訪れた夜景スポットが見えてくる。
まだ、バレンタインデー。
日付は変わってしまったけれど、眠るまでは14日ってことで許してもらおう。
*
車を停めて助手席へ回り、彼女の手を引いて、フェンス際に向かう。
前と同じように夜景を見て感動している彼女のことを後ろからぎゅっと抱きしめた。
特にすごく久しぶりというわけじゃなくても、やっぱりこうしていると安心する。
何回言葉にしても足りないくらい、君が好きだよ。
今日は時間をくれてありがとう。いや、いつもありがとう。これからもずっと…ありがとう。
そんなことを思いながらしばらく抱きしめたままでいると、
腕の中の彼女がもぞもぞと動いて、俺の方に身体の向きを変えた。
そういえば、今日はまだちゃんとキスをしていないことを思い出す。
ああ、彼女が何か大きなものを持っていて、それでしそびれたんだっけ。
「さっき持ってた大きな箱、何?」
「あ、えっと…ケーキ、焼いてきたの。チョコレートの」
「そうなんだ」
「バレンタインですから。帰ったら…ちょっとだけ食べてもいい?食べられる…?」
「もちろん。楽しみだな」
「それからね、もうひとつあるの。これは買ったものなんだけど…」
そう言って彼女がカバンをごそごそし始めたので、少しだけ身体を離してその様子を見守る。
カバンから取り出したのは、何か四角い包みのようなもの、だけど…
そのままその包みを開くのを見ていると、中からお菓子のようなものが出てきた。
「中にお酒が入ってるチョコなの。ちょっとならいいかなあと思って」
「ブランデーとか?」
「ん、そうじゃないかな…食べてみます?」
「食べさせてあげようか」
今日最初のキスのついでに。
彼女が持っている箱からひと粒取り出して、口の中に入れた。
意味がわからずきょとんとしている彼女をぐっと抱き寄せる。
口の中で少しだけ噛むとチョコレートの中からとろりとした液体があふれ出した。
そのまま、彼女にキスをする。
キスをする直前に、何をするのか気づいた彼女が少しだけ身構えるのが見えた。
大丈夫。少しだけなら酔ったりしないから。
重ねた唇の隙間から、チョコの欠片と微量の甘いアルコールを流し込むと、
彼女の身体が少しだけよろけた。
慌てて支えなおしながら、チョコレートと酒の味が消えた後も、
何度もキスを繰り返して息が続かなくなりそうになった頃。
唇を離してから、身体の熱が少し上がっていることに気づいた。
至近距離で感じる彼女の吐息が、それをじんわりと押し上げて、いく。
彼女とキスをすればそうなることは十分過ぎるほどわかっているのに、
俺は今日も自分からその扉を開く。もちろん、自分の意志で。
「美味しい?」
「…酔っ払っちゃいます…っ」
ここでなだれ込むようなことになるわけにはいかないから、
つとめて冷静に、チョコレートの感想を聞く。
そんな俺の問いに怒った風に答える彼女の顔は多分笑ってるんだろう。
声から笑みがこぼれだす。
それで、頬も少し赤かったり、するんだろうな。
暗くてよく見えないのが残念だ。
もう少ししたら、もっと明るいところで、いろんな表情を見せてくれるだろうから…
それまで我慢、我慢。
「たくさん食べたら飲酒運転になっちゃいますから、後は帰ってからですよ?」
「そうだね」
そろそろ帰ろうか、と言うと、彼女がこくりと頷く。
君からはいろんなものをたくさんもらったけど、まだプレゼントを渡していないし、
早く帰ってケーキを食べさせてもらわないと。
あんなにたくさんキスをしてもまだ足りそうにないから、そのあと、今の続きをしよう。
眠りにつくまではバレンタインデー。
一緒に過ごせる相手…愛しい恋人の存在を思うまま、存分に確かめたい。
真夜中を過ぎるまで。真夜中を過ぎても。
2008/02/15 OUT